●一日、がっつり制作。絵が大きく動いた日。物理的にも、キャンバスが反時計回りに90度回転した。今まで、制作中に作品の天地が逆転したことはあったけど、こういうのははじめて(雑誌に小さな図版が掲載された時に、縦長の作品なのに横に倒して、横長の作品として掲載されてしまったことはあるけど)。
意図的にやったわけではなく、いわば自動的にそうなってしまった。制作中の作品のフレームがスクエア(130cm×130cm)だから、転がり易かったのかもしれない。「慣れてしまった目」をリセットさせるための天地を逆にして見てみようと思って、フレームの両端をもって、一回目で90度まわしていったん置いて、もう一回やろうと思ったところで、あれっと思って、ここから行けるんじゃないかと思った。縦長、横長というイメージが事前にあると、天地が逆になることはあっても、90度回転という風にはなりにくいけど、スクエアならそういう縛りがない。
とはいえ、今回はたまたまそうなったのだが、これが意識的な方法になっちゃうと違ってしまう。というか、90度回転させたくらいで「新鮮さ」を感じてしまうようでは駄目で、右90度、左90度、180度の回転像、およびその反転像くらいは、頭のなかで自動的に変換してイメージできるくらの状態で制作しないといけないのだと思う。
それどころか、画面の上のタッチとタッチとが、今、この画面の上での「この関係」があるだけでなく、前世にも、来世にも、別の関係があった(それを感じることが出来る)、というくらいの絵を描きたいわけだから。
だけど、左と右、上と下の「意味(感覚・感情)」の違いを、完全に解消してしまうことはできないし、また、してしまってもいけないとも思うのだけど。というか、まさにその感覚(上下左右、重力、重心や傾斜)こそが制作の導きであり根拠であるように思う。それがないと、全ての変換可能性が等価になってしまう。様々な変換可能性が感じられつつも、それが「これ」としてあるということの、両者が同時にないと面白くないので。
「そこにもわたし」「あそこにもわたし」「むこうにもわたし」が成立するためには、「わたし」という凝集性が必要、みたいなことなのだろうか。
●以下は、10月1日と3日に撮った写真。