●ひきつづき制作。合板パネルに直接油絵具をのせるということをやってみる。一応、マットメディウムで目止めはしてあるけど、油染みがどの程度出てしまうのかとか、そういうことはやってみないと分からない。
●「形」は、画面上の様々な力や動きの折衝の結果として形となる。だから、形には、自らを形作ろうとする力と、自らを崩そうとする力とが含まれ、その力の均衡状態としてある。形はあくまで結果であって目的ではない。そうである限り、形は決して(流れや動きをせき止めて)何かを固定するものではないし、輪郭線に規定されるものでもない。そのことが分かっていれば、「形」を描くことを恐れる必要はなくなるし、形の根拠(形の必然性)を画面の外部に求める必要もなくなる。
とはいえ、形が、画面の外部との関係を断ち切って自律的なものとして成立しなければならないと硬く考える必要もない。形はどうしたって、ある程度は比喩的な機能をもってしまうし、画面外にある「何か」との関係を(連想的に)呼び寄せてしまう(これはおそらく「色」も同様)。「形」はどうしたって「何か」に見えてしまう。だが、このことには鷹揚でいればよいと思う。おそらくこの「鷹揚さ」が、制作にとっても鑑賞にとっても重要な役割をもつ。
その形が、様々な力の折衝としてあれば(つまり、単調な形でなければ)、たとえ「何か」に見えたとしても、その「何か」に還元され切って(固定されて)しまうことはないはず(ロールシャッハテストの図柄が「作品」と言えないのは、その形が、あるいは形と形の関係が、単調すぎるからだ)。むしろ、「何か」に「見えてしまう」ことが、画面に(作品という「自律性(諸力の折衝)」には還元不能な)「穴」をあけてくれて、作品そのもの(そこにある「諸力の折衝状態」そのもの)には属さない予期不能な通路となって、作品とその外の「何か」との関係を可能にしてくれるチャンスとなる、はず。
(作品とその外との関係は「作品の自律性」には含まれないとしても、「作品」に孕まれている可能性はある。いや、それは「作品」の側というより、作品をつくる、あるいは観る人の「頭のなか」に孕まれている、と言うべきか。)
●作品には、目的としての完成があるわけではないが、ひたすらな過程の連鎖だけがあるのでもない。過程のなかでもちこまれた様々な力がせめぎ合って、それら諸力の折衝が、個々の要素、個々の力には還元出来ない「ある状態」として成立した時、作品として成立する。諸力のせめぎ合いのなかから「別のもの(別の次元)」がふっと浮かび上がった時に、作品となる。今あるものとは別のリズム、別の習慣、別のテクネー…。
●作品は、ぼくが(主体的に)つくるのではなく、ぼくは「作品生成システム」の一部でしかない。重要なのは、そこに「別の何か(リズム、習慣、テクネー)」が生まれるかどうかということ。ぼく自身は、そのための「良いメディウム」であることを目指す。ぼくの主体性は、「良いメディウムであろうとする」というところにある。