●昨日読んだ「初期クイーン論」(法月綸太郎)で一つ納得できなかったのが、「双生児の決定不能性」を「図と地の決定不能性」として捉えているところだった。いや、そうじゃなくて、双生児(双数性)の問題を決定不能性として捉えるのは違うのではないか、という点だった。反転を、たんに図と地の反転(決定不能性)ととってしまうと、それこそ、エッシャーどころか、横顔に見えるのか壺に見えるのか、みたいな単純な図像に還元される問題となってしまうと思う。
つまりそれだと、一つの全体が常に潜在的に想定されてしまっている。反転が起こるとしても、そこで作用しているのは表であろうと裏であろうと常に「一つの地」である、と。しかし、図と地が反転するたびに、潜在的な次元にある「地」が分離して増殖してゆく、あるいは変質してゆく、と考えた方がいいのではないか。表が裏に反転したとして、さらに反転すると裏の裏で表になるのだが、最初にあった表と、裏の裏としての表とは、それを図として見せている「地」が、実は変質していると想定できる(「地」は見えないわけだが)、という風に。
あるいは、同一平面上に図1、図2、図3という三つの形態があった時、図1と図2の関係を支えている地1と、図2と図3との関係を支えている地2と、図1と図3との関係を支えている地3という、三つのペアに対応する三つの潜在性が(物理的には同一平面であるところに)同時にあると考えることも可能になる(だからその時は「画面全体」というものがない)。この時、画面が(つまり目に見える図1と図2と図3との「関係」が)示しているのは、目に見えない地1と地2と地3との交錯・落差・衝突ということになる。ぼくの考えでは、これこそがセザンヌマティスの絵画が実現していることだ、ということになるのだが。タッチを置くごとに振動するように微妙に地がずれ込んでゆくセザンヌ、いくつかの地がざっくりと交錯するマティス
(そして、大江健三郎の小説もそうだ、ということを今出ている「早稲田文学」四号に書いている、多分…)
例えば『隻眼の少女』にある複数の双形性も同様で、静馬とみかげの対称的関係(探偵とワトソンという対だけでなく傷-罪の同型性)を支えている地と、みかげとスルガの対称的関係(形式の同型性と内容の対称性)を支えている地と、みかげ(母)とみかげ(娘)との対称的関係(名の同一性と教育者-被教育者という対称性)を支えている地と、さらに、種田静馬と日高三郎との対称的関係(同一人物の分裂)を支えている地とは、実はそれぞれ異なっているはずなのだ。だが『隻眼の少女』はミステリとして書かれているから、そこにあたかも統一的な地が作用しているかのようなパースペクティブを仮構しなければならなくなる(すべては犯人という消失点に収斂されるかのように作図される)。しかしそれは仮の(偽の)ものでしかない。とはいえ、無理矢理パースペクティブを仮構する、その無理矢理さが面白く、かつ、無理矢理さにある必然性が感じられるところが、面白いと思うのだが。