●夢のなかで、ギターを弾きながら何度も何度も繰り返してYMOの「CUE」を唄っていた。唄っているというより、自分なりのギターアレンジをつくろうとしているようだった。ギターは、実際にはまったく弾けないどころか触ったことすらないし、今までこういう感じの夢を見た覚えがあまりないので、目が覚めて、何か恥ずかしい夢を見てしまったかのような戸惑いがあった。最近、特に聞いたわけでもなく、何故「CUE」なのかもよく分からない。
夢のなかのぼくはギターがあまりうまくはないようで、たどたどしく弾きながら何度も行き来して、音を探しているようだった。
●引用、メモ。ヘーゲルの否定性について。「真理の生成」三重野清顕(KAWADE道の手帖ヘーゲル入門」所収)より。
《まず、「否定性」がそれとして了解可能であるのは、否定性といえども「みずからに等しい」からである。このように否定性が「自分自身へと関係する」かぎり、否定性はそのまま「直接性」であることになる(1)。だがそのいっぽうで、否定性とは「自己への否定的関係」である以上、それは「みずからに等しくない」はずである。だとすれば、(1)に述べられたそれ自身直接性であるような否定性は、むしろ「否定性」と呼ぶにふさわしくない。そのようなありさまは、本来の否定性にとっては疎遠であり、それゆえ互いに他者として規定しあう関係へと陥ってしまうように思われる(2)。しかしこのことによって、かえって「みずからに等しくないこと」が、つまり否定性がみずからに否定的にかかわるということが実現されている。すなわち否定性は、「おのれに帰って」きているのである(3)。このとき否定性は、「みずからに等しい」ことをつうじて、はじめて「みずからに等しくない」のである。そしてここにはからずも実現されることになった「みずからに等しくない」ということこそが、まさしく否定性にとっての「みずからとしてあること」にほかならない。》
●否定性が、「自らに等しい(直接性)」を通じて「みずからに等しくない」という「みずからとしてある」あり様へ至るのだとしたら、真理(みずからに等しい=永遠)は、「みずからに等しくない」を通じてこそ、「みずからに等しい」という「みずからとしてある」あり様へと至る、ということになる。否定性と真理との裏表の関係は、分かちがたく絡み合っている。いや、ここにみられるのは、たんなる裏表ではなく、二つのメビウスの輪がもう一つ高い次元で裏表となって、さらにメビウスの輪をつくっている、みたいな感じだろうか。
ヘーゲルの「否定性」の分析によって明らかになること、それは真理をあらわす指標が「みずからに等しい」ことにあるとすれば、それはむしろ「みずからに等しくないこと」を通じてしか達成されないということである。「否定性とは、否定性そのものであって、また否定性そのものではないということ、まさしく両者がひとつの統一のうちにあることである」(ibid)。否定性は、それ自身否定性であることによって、ただちに否定性であることをやめてしまう。またそのいっぽうで否定性は、このように直接的なものへとおちいることによってのみ、はじめて否定的なものたりうるのである。だとすれば、「みずからとしてあること」の実現は、それ自身の喪失を伴うことなしにありえないことになる。》
●このような否定性の具体例として、ヘーゲルは無意味を志向する記憶、例えば習慣のようなものを挙げている。だがこの時、反復される「本質」はただ「無意味」としてしか可視化されない。それは、本質なんて意味がないということではなく、本質は何事かとしてあるが、それは「無意味」としてしか我々の前には姿をあらわさない(本質は意味によっては捉えられない)、ということであろう。
《われわれが習慣によって行為するときには、完全にいま・ここでの行為そのものに没入してしまっている。しかしそれは同時に自分の行為を、いつとは知れぬ過去の完全な反復にしてしまうということでもある。つまり現在の直接的行為そのものになりきることによって、かえってその行為自身の直接性の核はすでに奪われているのである。このように、ひたすら「無意味」という意味のみを志向するような意味作用としての記憶をもって、ヘーゲルは「思惟 Denken」の故郷とみなした。》
《たとえば記憶している詩の一節をふと口ずさむとき、われわれが発する音声そのもののうちになんらかの価値があるわけではない。それはある記憶の「あらわれ」というよりほかにはいかなる意義ももたず、それが反復をもって指示するものにたいしてひたすら従属的である。しかしながら、それらは「ふと」機械的に発せられるかぎり、あくまで「無意味」なのであって、もはや有意義ななにものかを指示することはない。その「あらわれ」のうちに反復され、指し示されているのは、いわばそれ自身決して想起の対象となることのない空虚なのである。》
《そして一般に再認をとおして事物の本質が可視化される(ガダマー)のであるとすれば、この反復によって生成し、可視化される本質とは、「無意味」、つまり決して可視化されえないものであろう。おそらくヘーゲルにとっては、世界の存立そのものがこのような不可視の本質の反復なのであり、その総体をもってこの本質を指し示しているのである。》