●『フィロソフィア・ヤポ二カ』(中沢新一)の第一部においては、種から個が発生する様を、オーストラリアのフクロネズミの神話分析と生物学的な原腸形成という二つのやり方で例示している。おそらく理論的には、後者が重要であると思われるが、前者の部分で見逃せない記述がある。
フクロネズミの神話分析では、まず最初に、質料とその否定をともにはらんだ矛盾状態とされる、想定された原初としてのコーラが置かれる。原初としてのコーラは未だ「種」ではない。ある時とつぜん、コーラと一体になって眠るフクロネズミに「思考」という不連続性があらわれることで、コーラから物質的質料がこぼれ出て、それが絶対否定されて世界の外へと没してゆく。「質料(生命の一)+否定」の矛盾する混合態としてあったコーラが思考の芽生えによって分離され、否定性が残る。世界の外へと剥落した質料(生命の一)は世界内部では存在する多へと代替・転換され、そこで、存在する多と否定性が結びついて、「多」として「個」を否定する「種」の否定性が生まれて、それによって、互いに否定によって媒介される「種」と「個」の関係が生じる、とされる。
つまり、第一の否定(質料の世界外への剥落)によって「多」が生まれ、第二の否定によって「多」が「種」としての否定性をもつ(「多」が「種」となる)、という風に考えてよいのだろうか。だとすれば、真のハイブリッド(媒介)として、コーラのなかでの突然の思考の生起そのものに接している第一の否定(つまりそれは世界のはじまりそのものだろう)と、第一の否定によって既に出来上がった世界のなかで作用しはじめる第二の否定(世界のなかでの種-個関係の誕生)という、二つの否定(二種類の次元の異なる媒介)があるということになるのではないだろうか。これは順番の問題であるより、否定(媒介)の質(次元)の違いとしてあるのではないか。
(これは、最初の疎外(否定)によって存在-主体が大文字の他者の領域へ移動し、そこで代理表象としてのS1とS2とに分離され、S2が「消失(否定)」という効果を産出する、というラカンの話に形が似ている気がする。)
●生物学的な原腸形成の例。原腸形成は動物の発生過程で最も重要な段階であり、《生物学者はよく「人生でもっとも重要なのは誕生でも結婚でも死でもなく原腸形成である」とさえ言っている》、とされる。
卵内部ではまず卵割と呼ばれる細胞の分裂が起こるが、これは昨日書いた種の構造的な繰り広げの軸に相当する出来事で、しかしこのような水平的な分化、分裂だけでは細胞の集まりは「個」へと飛躍することはない。ここに、分裂と統一の矛盾を含んだ強度の軸が作用する。それは、自らの強度に耐えられなくなって出来るかのような亀裂から、自分自身の内部へと自分自身が流入し、折り込まれるという出来事として起こる。
《このとき、卵の表面の一部に「原口」と呼ばれる口ができて、そこから周囲の細胞が胚の内部への流入をはじめるのである。(…)この原口背唇部こそが、構造的対立軸(多数性の現象がこの軸にそって展開される)と垂直性をそなえた強度的セリー軸とが、形態形成場の中で交わっている地点で、分裂と統一との緊張を支えきれなくなった力動的多様体に、均衡の破れが生じて、力強い流動的な運動がおこり、過剰化した微分的コナトゥスは、原口から自分の内部に向かって陥入する襞の運動となって、現実化されるのだ。》
《全体が表面であった卵が、自己の内部への折れ込みを通して、襞としての構造に変化を起こし、内部に流入した表面であるところの中胚葉からは、高度な意識作用をそなえた生物に特徴的な、複雑な神経組織や脳の組織が、つくられてくるからである。》
●よって、「個」は、《「種」の否定性》を《肯定するもの》であり、《種の否定的統一》である、とされる。それはつまり、多数のものたちの対立組み合わせ(構造)からだけでは「個」が生まれてくることはないということでもある。
《「種」の多様体を突き動かしている微分状の力的契機(コナトゥス)が、「種」そのものを基体として成り立たせている構造的均衡を破って、みずからの内部への折れ込みを示すようにして襞を形成してゆくとき、「種」の否定性を肯定するものとしての「個」が現れるのだ。》
《「個は種の分割によって現れるのでなく種の否定的統一として現れる」のである。種の単純な分割は、卵割による多数性やその多数なものの対立組み合わせしか、生み出さない。(…)非有の前存在的な多様体である「種」自身が、みずからを否定して、有への飛躍を現実化する。だから、「種」というカオスがなければもとより「個」などはなく、また「個」によって現実化されないかぎり、「種」はついに仮想的な場所としてとどまりつづけることになる。》
●「個」が、《「種」の否定性》を《肯定するもの》だというのは具体的にどのようなことか。端的に有無の矛盾としての「死」をもつということになる。
《田邊元は「質料の有無対立の動的直接統一たる」ものが、「個体」の原理だと言っている。たしかに、「個」には生死の現象がつきまとい、いってみれば「個」の内部では有と無の矛盾が、絶対的なものとして働きつづけている(…)したがって、「個」は質料という「種」的な多様体を突き動かしている有無の矛盾が、直接態であらわれることになるのである。これは、「種的基体」に包摂されている「個」が、けっして「種」に還元されえない独自性をもつことの、深い理由をしめすものである》。
《「個」と「種」の間のもっとも大きな違いは、この自己否定的な強度のあり方にあらわれる。「個」は「種」を現実化することによって、「種」のはらむ矛盾まで現実化する。(…)有無の間の絶対的矛盾が、「個」の内部ではそのままに現実化されて、保存されることになるのだ。そのために、あらゆる「個」は生まれ、死ぬ存在となる。「種的基体」の多様体上で微分として張り合っていた諸矛盾が、「個」において、生(有)と死(無)の絶対的な矛盾のかたちに激化されて、現実のものとなるだろう。》
《…「野生の思考」は、個体の死のような現実に対して、概して無関心であったという考えもあるが、民族誌的事実はむしろ逆のことを主張しているようにみえる。民族誌の中には、しばしば現地の人々が死というものを「衣を脱ぎ捨てて、存在の位相を変えるようなもの」として了解している様子が描かれている。この表現には、ふたつの否定性のことが、語られている。ひとつは、死とは絶対的な「個」の現象であることが言われている。人はたった一人で死んでいかなければならない。そこには「個」を包摂している「種」の入り込む余地はない。(…)そして、「別の存在の位相へと転換をとげる」---このとき人は、「個」でもなく、それを包摂する「種」でもない、別の位相へと存在の転換をとげる。衣の脱ぎ捨ては、「種」への融合・融即を意味しない。》
●「否定的に」「肯定する」というねじれた関係によって、「個」は、「種」から切断されつつ、接合されている。あるいは、決定的な飛躍(切断)を介して、関係している。切り離されることによって接している。このことによって、「個」は、「種」が「類」へと転換するさいの媒介となる可能性を有することになる。それについてはまた改めて。
●ここでもう一つ面白いのは、おそらくラトゥール経由の媒介の思考によって、存在の充実(もの自体というような)とは異なる媒介的マテリアリズムを構想していること。ここで言われている「前存在」とは、根源というようなことではなく媒介であり、媒介する実践的技術の問題なのだ。
《もうひとつの問題、すなわち「物質性(マテリアリテ)」の本質にかかわる問題のほうに、取り組むことにしよう。「種の論理」は質料(マテリアル)というものを「有と無との対立の統一を、論理の区別限定に先だち直接態において捉えたもの」として理解した。すると、しばしば「物質」とも翻訳されることのあるこの質料という概念は、少なくとも有(存在)の充実としては、考えられないことになるだろう。「イデア」があの野生思考的な「鯰人間」や「狼人間」のように、前存在的な性質をもっているのと同じように、質料(マテリアル)もまた、前存在的な有無のハイブリッドな統一体として、考えられるようになる。》
《無媒介な基体としての「自然」などというものは、幻想にすぎないのである。したがって、無媒介に技術や文明と対立する「自然」などというものも存在しない。それらはまだ基体ですらない。矛盾をはらむ多様体としての「種的基体」から、文字通りその力動的構造の現実化としての「個体」が生まれてくるように、「自然」なるものと外見上は対立するように見える思考や技術なども、その「自然」が内蔵する真実の「種的基体」(それは複雑な力動的多様体の姿をしていることであろう)の否定分裂性から、人間の脳と神経組織を媒介として現実化されたものにほかならない。》
《「種の論理」は、自然やガイアを最終の基体とする自然存在論を、その当の自然を「個」による実践に媒介することによって、創造的に解体することをめざすのである。またそれは、近代を基礎づけている人格存在論の構造に、ふたたび「種」を媒介することによって、エロティシズムと具体性にみちた多様体哲学へと変成させようとこころみる。》