●朝、とても冷えた。
●『フィロソフィア・ヤポ二カ』で、個を媒介とすることで、種が類へと飛躍するというところの論理的な構成はとても難しくて、改めて読み返してみてもよく掴めないところがあるのだが、これはつまり、出発点としてはローカルな地域主義、民族主義に近いところからはじめて、それを、目的地としては、近代主義が掲げる普遍へと至る道筋につなげようということなのだと思う。それは、いわゆる近代的な(カント的な)主体(個)によってではなく、共同体的なもののなかで育まれた個によってこそ、(自らを育んだ共同体的なものを切断、超越し)普遍(類)が創造される可能性があるのだ、ということだろう。
この時(昨日引用した部分にあるのだが)、「自然」から生み出される「技術」(自然・技術の関係)が、「種」から生み出される「個」(種・個の関係)とパラレルになっている点が重要であろう。種を類へと飛躍させる(媒介する)個の実践とは、そのまま、具体的、実践的な技術の創造であり思考の創造であるということになる。
そしてここでは、普遍(類)はあくまで「国家」という形で実現されることになっている。民族主義から出発して国家主義へ、ということになるといかにもヤバイ匂いがたちこめてくるのだが、この本が論理的にガチだというのは、このいかにもヤバイ流れのなかから、がっしりした論理的な根拠によってヤバさを払拭しようとするものだということだろう。この本は(まだ一部だけしか読んでないけど)、時に胡散臭くもみえる中沢新一の実践的な活動の「根拠」たりえる密度をもつと思われる。
●類=国家というイメージを打ち出すため、種的な社会(冷たい社会)の神話と、国家をもつ社会の神話が対置される。種を否定する個こそが、国家(類)を思考・指向する。文化の掟をやぶることで大蛇に呑みこまれるワウィラック姉妹の神話と、呑みこむ大蛇を倒すスサノオの神話。
《冷たい社会の神話的思考では、「個体」(ワウィラック姉妹が象徴するもの)は基体の一部分と考えられ、文化をもつこととによってかろうじて自然的基体からの自立を実現してはいるものの、その自立はまことに弱弱しいものであって、文化の掟を侵犯したとたん、たちまちにしてふたたび基体に呑みこまれていってしまうものと、感覚され、また思考されていた。》
《ワウィラック姉妹を呑みこむ大蛇ユルルングルに対しては、大蛇ヤマタノオロチに立ち向かうスサノオの神話を対置しよう。(…)スサノオによって「種を否定する個」の思考を知ったのである。オーストラリア・アボリジニーは国家というものを持たなかった人々である。これに対してスサノオ神話の背景には、すでに国家がある。「種」を否定する「個」が生成されると同時に、それは「類」の概念を生み出し、それは国家の思考をつくりだす。こうして共同体を越える国家の思考は、「個」を呑みこむ地下の大蛇を殺害するという深層イメージと、深く結びつくことになる。》
●「類」とは何かという問いに、中沢新一は次の引用のように答える。ここでもやはり、重要なのは基体としての「種」ということになる。これはつまり、「個」から直接「類」を導き出そうとする(「種」を排除しようとする)近代主義への批判という意味もあろう。
《共同体に対しては国家、民族に対しては人類、そして民族国家に対しては人類的国家に属する未知の形態。それは「種」を超越し、「個」の眼前に立ち上がる。しかし、田邊元によれば、その「類」なる普遍ですら、「種」を基体としてしか出現することはない。ましてや、「類」的普遍から直接に「個」が生まれ出てくることなどありえないし、「個」がたくさん集合すれば、その中から「類」が発生してくるなどということもありえないことだ。(…)「類」は、このような基体としての「種」に、「個」のおこなう行為的実践が働きかけるとき、はじめて私たちの世界に出現してくる概念なのである。》
●個を媒介とすることによって、種から類へと飛躍する様を描く田邊元の論理的な展開をざっとメモする。
「個」が、「種の自己否定的構造」によって「否定」され、「種の自己否定の絶対否定的肯定的転換」によって「肯定」される時、「個」は、「否定即肯定」で「無即有」という状態になる。その時同時に、「種」は、「肯定即否定」で「有即無」という状態になる。それによって「種」と「個」が互いに媒介し合い、「種即個、個即種」という状態になり、この状態こそが「絶対的類」であるとされる、って言っても…。
《自己否定的に動を湛える力の緊張としての種が、その含む否定の二重的対立性を解放し、かかる否定的対立の重畳として微分的なる力の張り合う関係が自由に徹底せられて絶対の否定にまで展開せられるその極限において、その自己否定を絶対否定的肯定に転ずるものが絶対普遍に外ならない。》
《それであるから絶対普遍の否定即肯定なる絶対否定性は、種の自己否定の極限においてこれを肯定に転ずる原理であって…》
《絶対普遍の絶対否定的統一性と種の自己否定的分裂性とは表裏相即する。(…)後者の無限なる自己否定の動揺激動を基体として、これを絶対否定の超越的統一に転ずるのが前者の絶対的統一性である。》
《絶対的なる分裂動乱そのものを絶対の静一に媒介して、種の根源の否定的転換により個の否定即肯定的なる統一を発生せしめるのが絶対普遍である。》
●要するに、多であり重層であり動揺動乱である「種」と、一であり静である「類」とが、「種」における《力の張り合う関係が自由に徹底せられて絶対の否定にまで展開せられるその極限》としてあらわれる「個」という平面に表裏として背中合わせに反対向きに貼りつけられているような状態が、種-個-類の関係であり、そのような関係が成立した時にはじめて「類」があらわれるというイメージでいいのだろうか。そして、「類」が創造されることではじめて、「個」において《否定即肯定的なる統一》という状態が現れる。
これはつまり、種からの飛躍を果たした個による自由な実践によって種から類(国家)が創造されるのだが、同時に、類(国家)の成立によってはじめて、個に自由(種からの飛躍)が訪れるということにもなる。個を強調するアナーキズムでもないし、類-種-個という単調な階層構造でもない。
●このようなややこしい話を、中沢新一はものすごくわかりやすく鮮明なイメージで説明する。
《虹が天空に立ちのぼったのは、「種」の貯水池から一気に滝となって「個」が、現実の中に落下をとげたからだ。(…)「個」という滝は、「種」のダムから放流される。そして、滝が激しい水音とともに垂直に落下をとげるのを媒介として、滝壺というもうひとつの「種」の基体から虹は立ちのぼり、その虹がめざす天空に広がるのは無制限の青空。》
●ここで、「種」が「個」による媒介によって「類」へと発展する時、「種」は一度徹底して否定されなければならないことが強調される。飛躍は、その切断によって無媒介的に起こるとされる。
《…その対立を統一する原理は絶対否定的統一性であるから、反対の間を張り渡す基体としての種はそれにおいてひとたび絶対に否定せられるのである。その絶対否定の底から肯定的なる統一が行為的にはたらき出すのが個の切断に外ならない。基体の否定の底から主体が生まれるのである。基体即主体とはこの転換を言う。この転換はそれ故絶対否定を媒介とするのであって、いやしくも有としての基体的なる媒介は完全に自己を否定しなければならぬ。これを無媒介に絶対対立者が統一せられると言ってもいい。かかる無媒介なる統一はしたがって全く突如として行われる外ない。》
●もうちょっと、つづく。