●『輪るピングドラム』第16話。
●これぞ幾原ワールドという感じ。でも、脚本も演出も別の人みたいだから、幾原オマージュということかもしれないが。フグ刺しで頬を膨らませた夏芽の顔を見てチュチュを思い出さなかった「ウテナ」ファンがいるだろうか。
●夢とイリュージョンと毒と反復の回。夢のなかで何度殺されても決して死ぬことのない祖父は、実際に死んだくらいでは死なないので、復活する。夢の執拗な反復は、つまり祖父の不死性の表現であり、それによってマリオに転生した祖父の復活に、説得力が宿る。さらに、夢の反復が、現在の夏芽が過去の祖父の反復に捕らわれていることをも、裏付けるだろう。
●決して死なない(死を反復する)祖父は、祖父個人ではなく、祖父の祖父であるかもしれないし、祖父の祖父の祖父であるかもしれない(だから、祖父の顔は「祖父」という文字で隠されている)。あるいは、この世界には祖父1だけでなく、祖父2や祖父3もいるかもしれない。ここにあるのは、ある固定化された構造であり、夏芽が直面している人物は、たんに祖父個人ということではない。夏芽が戦っているのは、繰り返し反復してあらわれるものであり、マリオをそこから救うために、自分自身が敵を反復している。「すり潰されんぞ」の受動・能動を反転させて「すり潰さないと」として反復することに、夏芽の反復への敵意があらわれている。
●ただし物語は、夏芽が祖父の実際の行いを反復しているのか、祖父について見た夢を反復しているのか分からない(そもそも反復はイリュージョン空間をきっかけにはじまる、こんな「毒」のあるイリュージョン…、と家政婦は言っていた)入り組んだ構造をしており、そもそもこれらすべてが夢ではないかという、不思議な足下の不確かさがあり、それが構造の反復の切りの無さの表現ともなる。だいいちなぜ、祖父について回想している夜に、都合よく祖父が復活するのか。
●時籠においては、父の存在が過剰であったことが問題だったが、夏芽においては、父の不在が問題となる。時籠は、個人として偉大な(異常な)父が問題であり、自らを過剰に限定する愛(父だけを愛する、お前だけを、父は愛する)が問題であったが、夏芽においては、反復する構造を個人として固定化(固有化)してくれる父が不在であること(反復する構造を「お前」へと固定する愛の不在)が問題である。夏芽の、冠葉への過剰な執着と、冠葉を愛する者たち(その愛の記憶)への敵意は、ともに、自らを個(「お前」)として固定する愛の不在によるものであろう。
●世界には成功した者と失敗した者しかいない、という祖父の二分法は、どちらかのフグ刺しに毒があり、それを食べた二人のうち生き残った方を跡継ぎ(正統な反復者)にするという二分法へと転生して復活する。夏芽がその両方を口にするのは、マリオを死から守るためだけではなく、二分法を拒否することで祖父として反復する構造に抗し、ケリをつけるためだろう。
●そして、死につつある夏芽の前にあらわれる巨大な赤いペンギンボールは、夏芽にとっての蠍の火であろうか。
●地下鉄のなかでマリオがリンゴを手にしていた。そういえば「銀河鉄道の夜」で苹果(「銀河…」ではこの字が使われる)を手にするのは、家庭教師に連れられた姉と弟だった。
とはいえ、夏芽とマリオは本当に姉弟なのだろうか。陽毬とマリオこそが姉弟ということはないのだろうか。「マリ」が共通するだけでなく、丸い顔、丸いおでこ、丸い目、丸い口で出来ている顔は、どことなく似ている気がする。そもそも何故二人にだけペンギン帽が与えられているのか。
●夏芽の父の手紙。「父さんは、こちらで元気にやっている…」。「こちら」とは何処なのか。それは、高倉家の父母と「おなじ側」なのだろうか。そして、地下鉄のなかで、冠葉と夏芽の父は「おなじ側」にいる。社会的、世襲的、マッチョ的な構造から零れ落ちた夏芽の父。社会的な秩序から零れ落ちた片倉家の父母。そして夏芽もまた「おなじ側」へ踏み出すのか、というところで、また「目を覚ます」の反復。
●あと、時籠の時もそうだが「母」の存在の希薄さはどういうことなのか。「家族四人で」というのは、「祖父、父、夏芽、マリオ」ということでないとすれば、「父、母、夏芽、マリオ」であろうが、しかし母のことはまったく触れられない。
●夏芽が目を覚ました(息を吹き返した)現実世界でカーテンを開くと、祖父のいた同じ位置にサネトシがいる。フグの毒(死)を使う祖父と、クスリ(復活)を使うサネトシ。夏芽は、マリオをその位置から外すために自ら毒をくらった。「わたしはその電車には乗らない」という夏芽は、その位置にいる人間を信用しない。だが夏芽は、毒で一度死に、(夏芽の場合はクスリで)復活することで、図らずもまた祖父を反復して(させられて)しまう。
●運命を変える(世界線を移動する)二つのやり方があるようだ。「選ばれた者たち」によって世界をやり直すというサネトシの側のやり方と、桃果によるやり方。16年前の「事件」は、その二つのやり方が交錯したということも考えられる。
●いまさらだけど、マスコットキャラを主要なキャラクターたちのアバターのようにして、常にその傍らに置いておくっていうのは、すばらしいアイデアだと改めて思う。夏芽が歩いている隣をエスメラルダがちょこちょこついてゆくだけで、画面に動きが出るし面白くなる。二つのイメージ、二つの動きは、重なっているとも言えるし、分裂しているとも言える。重なりの度合いが高くなることもあるし、分裂の度合いが高くなることもある。二つのイメージ、二つの動きがあるだけでなく、そのような度合いの変化もある。編み物の道具を隠すために二号を使うとか、そういう風に小道具としても使えるし(陽毬のこの「隠す」行為は冠葉に対してしか有効ではないけど)。絵を描く人はさぞ大変だろうと思うけど。