●お知らせ。11月5日に、日本女子大学の近藤光博さんがやっている中沢新一についての勉強会(「中沢新一は何を云っているのか?---『フィロソフィア・ヤポ二カ』を通じて」)に参加させていただくことになりました。ぼくにとって中沢新一への関心は、ラトゥールやタルドへの関心とつながるものとしてあります。当日の模様はUSTで中継もされるようです。
http://lizliz.tea-nifty.com/mko/2011/09/2-08ba.html
●今日は『フィロソフィア・ヤポ二カ』の第6章を読んでいたのだけど、4章、5章と、がーっと盛り上がってきたと思ったら、話題が西田幾多郎に移ったとたんにちょっと緩んでしまった感じがする。ラカンの導入の仕方が乱暴すぎるというのもあるけど(鏡像段階と象徴的去勢をざっくり同じものとしてしまうのはちょっと…)、そこを置いておいても、議論が少し弛緩しているようにみえた。
●西田における《判断的一般者》から《自覚的一般者》への超越を、「鏡像段階(限定)」の小踊りするような歓喜(知・判断の下で働いている官能・欲望)と重ね、《自覚的一般者》から《叡智的一般者》への超越を、主体化(限定・去勢)によって「失われたモノ(原初)」への(不可能な)回帰と重ね合わせる図式は、ちょっと単調に感じられた。知-欲望-モノ自体(の順にどんどん深くなってゆく)みたいな、単調な階層構造になってしまうようにみえるというか。
最初の方に出てくる神話の話はとても面白いと思うのだが、そこで言われていることが(単純化された)ラカンの「鏡像段階」を根拠に説明されると、単調になってしまう感じ。というか、おそらく中沢新一が言いたいのは、自己のなかに自己を映すような、内包的・微分的な強度が、自ら自己を(背景の方に向かって)超越してゆく働き(欲望)の根拠となる、というようなことなのだと思うけど、鏡像段階の理論は、どちらかというと、「自分の似姿」という外側から与えられた像によって自身の統合的な同一化を(先取り的に)得るということで、むしろ外延的な規定に近いんじゃないだろうか。グノーシス派の神話や西田の自覚的一般者は前者に近くて、鏡像段階の理論は後者に近くて、それが(「鏡」によって)混同されていることで、議論が弱くなってしまっているのではないだろうか。
だだ、限定によって、限定の外側(限定の縁の「穴」)が自覚され、それによって背景(述語)方向への超越(の欲望)が生まれるということがおそらく言いたいと思われるので、「鏡像段階」による限定=去勢という話が出てくるというのは、その点からは納得できる。そして、《判断的一般者》の《超越的述語面》の底に「穴」としてある《主語的なるもの》を「対象a」とするのはすごく鋭い気がする。でも、内包的な自己による自己への関係(限定と超越)と外延的な鏡(限定)の違いがあると思うので、どうしてもそこがつながらないように思われる。
●西田の話はまだはじまったばかりなので、この先に期待したい。