●『フィロソフィア・ヤポ二カ』を最後まで読んだ。ぼくとしては第10章がクライマックスという感じだった。
「生きながら死人となりて生きるもの」としての暗号という比喩。しかもそれは同一性をもたない暗号(解読されるたびに別の意味をもつ)とされる。個がそのような暗号となる時、死即復活としての類に至る(連結される)。そのことがマラルメのサイコロの一振りと繋げて描き出される。弁証法的な論理によって書き直される差異としての反復。
《偶然を廃棄しようとたくらんでいるのは、むしろ確率における大数の法則だ。それは、空中にむかって何回もサイコロを投げ出し、出現の頻度を数え上げることによって偶然を粉砕してしまう行為なのである。ところが、この絶対的なサイコロの「一擲」は、たった一回で偶然をその全体において肯定してしまう。(…)しかし、それはどんな法則、どんな規則の同一性にも服従することがないものなので、それだけで完璧な全体をしょっている。(…)サイコロのひと振りはモナドなのだ。モナドとして、それは偶然の無の中に落ち込み、無即愛の底に触れることによって、有の世界にひとつの特異点である賽の目を送りだしてくる。》
●五日には、「中沢新一は何を云っているのか?---『フィロソフィア・ヤポ二カ』を通じて--」に参加します。
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