●今日撮った写真。
写真を撮る時、「変なフレーミング」を探している、という感じは確かにある(それだけではないけど)。それはあくまで「探している」であって、「狙っている」とか「つくろうとしている」ではない。風景のなかに既にある(潜在している)「変なフレーミング」を発見した時に(要するに、歩いていて「あれっ」と何かにひっかかった時)、立ち止まって、そこにレンズを向け、携帯のディスプレイ(フレーム)のなかにそれを再発見(それは幾分かは再構成であろう)しようとしている感じ。
風景のなかにフレーミングがあるというのは変な言い方だけど、ある特定の位置に立った時にはじめて(そこに既にあるはずだが、一歩前や一歩先では見えなかった)、「ある関係の総体」が見えるようになるという位置があり、その特定の「位置(一点)」が、風景のもつフレーミングだと言えると思う。それは風景のなかに潜在するもの(関係)が顕在化する一点であって、たんに視覚的にエフェクティブである位置だというだけではつまらない。
「ある関係の総体」には、(ある程度の恒常性が期待できる)物の空間的な配置だけでなく、動くものや、光の散乱や相互反映も含まれるから、その一点は空間的な一点であると同時に、時間的な一点でもある。
「ある関係の総体」は、実際に撮影している時に明確に掴まれているわけではない。例えばぼくは視力があまり良くないので、撮っている時に撮られた写真ほどには詳細に物や光が見えているわけではない。撮ってきたものをパソコンのディスプレイ上に表してはじめて、ああ、あの場所で感じていたのはこういうことだったのかと改めて気が付く。