●『ふたたび赤い悪夢』(法月綸太郎)を読んだ。
昨日、弟夫婦の家へ行く途中の電車のなかで『頼子のために』(法月綸太郎)を読んでいて、平凡な作品という印象をもったのだが(この程度のダークさはエンターテイメントとしてはいまどき普通としか思えなかった)、『ふたたび…』を読んで、とはいっても法月綸太郎にとって『頼子…』を書いてしまったことが決定的に大きな意味をもっているのだなあと感じた。『頼子…』以前の『誰彼』では、双子や首なし死体はミステリというジャンルにおけるジャンル的なガジェットであり、事件とその解決は形式的な問題であるように思えた。『誰彼』の面白さはその形式性をやりすぎと思われるほどに徹底しているところにあった。それに比べて『頼子…』が平凡に感じられたのは、それが形式ではなく「物語」を問題としており、だがそれをハードボイルド風の物語としてみるならば凡庸だと言わざるを得ないからだった。
『ふたたび…』は、『頼子…』を裏側からリライトしたみたいな作品で、『頼子…』では作品がはじまるより以前に死んでしまっていた頼子を「生きさせる」ための小説が『ふたたび…』と言えて、それは「死なせない」だけではなく「生きさせる」であって、そこにより高いハードルがあって、そのことが『ふたたび…』をこのような異様な形に発展させたのだと思った。そして、その「生きさせる」ために、ミステリというジャンルや形式、探偵という存在が賭けられている。一人の少女を「生きさせる」ために、彼女が殺人を犯していないことを(誰よりも彼女自身に対して)証明し、さらに、十七年前に遡って彼女の母親も殺人を犯していないことを証明しなければならない。それが出来ないのならばミステリ(探偵)というものが存立する基盤が成り立たなくなる。これは、物語や主題の問題であると同時に形式やジャンルの問題でもあり(その不可分性の問題であり)、そして、このような形で『ふたたび…』が書かれなければならなかったのは、何より作家本人が『頼子…』の「物語」的な側面に納得できていなかったからではないかと思う(だが、不十分であったとはいえ『頼子…』を書いてしまったことによって作家は後戻りできない地点へと自らを押し出してしまったのだろうとも思う)。
つまり、この作品はミステリというジャンルが事前にあって、その枠内で書かれたものではなく、「この試み」が成立することではじめて「ミステリ」とこの作家が考えている何ものかが成立する(あるいは、「ミステリ」と「この作家」が結びつくことが出来る)、というようなものなのだと思う。『ふたたび…』も、頭のない死体、複雑に分岐する双子性、母→娘におけるイメージの同型性、同一の事柄が事態の進行によるフレームや配置の変化によって意味が次々とひっくり返ること等、いかにもという感じのミステリ的な道具立てや書法によって書かれている。だが『ふたたび…』で問題とされているのは『誰彼』とは違って、一般的な問題としての、ミステリにおける探偵の位置とか後期クイーン問題とかいうこととは別の問題であるように思われた。ミステリ作家である法月綸太郎がミステリを書いている、のではなく、法月綸太郎にとってミステリは、未だ十全には存在しない未知の何ものかであって、そのような来たるべきものとしての何ものかに向けて書かれているように感じられた。少なくとも、『ふたたび赤い悪夢』はそのような作品であると思った。
●今の時点からみれば、途中で出てくるいかにも「時代」を感じさせるアイドル論や、最後の柄谷行人の引用はない方がいいんじゃないかと思うけど、そういうところも含めて全体的に「若さ」が強く感じられて、でもその「若さ」は、とても好ましい感じで出ているように思った。