●メモ。『考える脳考えるコンピューター』(ジェフ・ホーキンス)、6章の後半、その2。
●行動と知覚は高度に相互依存している。見たり、聞いたり、触れたりすることは、それをする人の行動に大きく依存する。新皮質の領域の第五層の細胞は、運動にかかわる旧脳の組織にも情報を流すことで行動を制御する。ある普遍の表現が階層を下るにしたがって複雑で詳細なシーケンスへと展開されてゆく流れは、「感覚」野でも「運動」野でもかわりはない。次に何を感じるのかという予測と、次に何を行うのかという行動への命令は分けることができない。《自分自身の行動が関与するとき、予測は感覚に先立つだけでなく、感覚そのものを決定する》。つまり、こう感じるためには、こう動く必要があると、考える。あるいは、こう動くならば、このような感覚入力があるだろうと、予測する。考えること、予測すること、行動することは、すべて同じシーケンスを展開したものとして、階層を下ってゆく。
●新皮質の最下層に流れ込む情報は絶えず変化している。それぞれの領域はそれを既知のシーケンスの一部として解釈しようとする。つまり柱状構造は入力に先立ってその興奮を予測する。予測が可能なときは、上位の領域には移りゆくパターンの詳細ではなく、安定したものであるシーケンスの「名」を渡す。
では予測できない新たなパターンについてはどうなのか。それは詳細が「そのまま」上位へと受け渡される。《予測できなかったパターンは上位のどこかの領域で出来事の正常なシーケンスの一部と解釈されるまで、新皮質の階層を順にのぼっていく。》階層の上位にいくほど、《その解明に関与する領域の数は増える》。階層ちゅうのどこかの領域で解釈が可能になるとその領域は新しい予測をたて、その予測は可能なかぎり階層を下ってゆく。しかしもしその下降の途中で予測が適当ではないと発見されれば、誤りが検出されそれがまた階層を上ってゆく。
●新皮質の六層すべてにおいてどの細胞にもシナプスがあり、そのほとんどが経験によって変化する。ヘッブの学習則によれば《二つのニューロンが同時に興奮したとき、それらのあいだのシナプスは結合が強くなる》。ヘッブの学習則の原理によって、空間的なパターンとパターンのシーケンスの学習が可能であることは以前から示されていた。しかしそれだけではパターンの変形がうまく扱えなかった。新皮質の構造がその限界を回避できるのは、一つに、自己連想記憶が階層的に積み重なっていること、もう一つは、柱状構造が巧妙に組織化されていることによる。本章で新皮質の階層構造が詳細に語られるのはそのためであった。
人が生まれた時点では新皮質は本質的には何も知らない。すべてを最初から学ばなければならない。学習することは基本的に二種類のことであり、それはパターンの分類とシーケンスの組み立てだ。両者は相互に補い、影響し合う。ある領域がシーケンスを学習すると、上位の領域の第四層に送られる入力が変化し、それによって上位の第四層の細胞は情報の分類を新たに組み替え、それが下位の第一層に戻されるパターンの変化となって、下層のシーケンスに影響する。
新皮質の領域がシーケンスを組み立てるにしたがい、上位の領域への入力がかわってゆく。個別のパターンをあらわす入力が、パターンのシーケンスをあらわすようになる。これによって、学習が繰り返されるうちに「対象の表現」が新皮質の階層を下って行くことになる。人生がはじまったばかりの頃は、現実世界の記憶は新皮質の上位の領域に形成されるが、学習がすすむにつれ、それらがどんどん下位の領域に再形成されるようになる。文字を学びはじめる時、まずは「個々の文字」の識別が問題となり、次に「簡単な単語」の識別に移り、それが「長く複雑な単語」、「句」「分節」へと、「注目する対象」が移ってゆく。本を読む時、いちいち一つ一つの「文字」を読み上げるようには読まなくなり、句や分節を一つの単位として読み取るようになる。
(勿論、意識すれば、個々の文字、文字を構成する線分や点、印刷の染み等に注目を移すことができる。あるいは意識しなくとも、実際には四六時中このような「対象レベルの変換」は起きている。この普段は意識しない対象レベルの変更には、一般的に、上位の層からの意識的な信号によるものと、下位の層からの思いがけない信号によるものがあるとされる。しかし筆者はそれに加え、領域の第五層から視床を経て、第二層によるシーケンス分類抜きで直接上位の第一層へとフィードバックされる経路が、ここに関与するという仮説をたてている。)
●海馬について。海馬を損傷すると新しいことが記憶できなくなる。損傷の前に知り合った人は憶えているが、損傷後に出会った人のことは何度会っても憶えられない。筆者にはその存在意義がずっと理解できなかった。だが、ブルーノ・オルスハウゼンが、海馬は新皮質の最上位に位置する組織ではないかと指摘した。つまり「新皮質」は進化の過程で、海馬とそれ以外の脳の部分との「あいだ」に出来たものではないか、と。
前述した通り、新皮質の各領域は、予測できなかったパターンがあればそれを「そのまま」上位に渡し、それはどこか予測や説明が可能な領域にまで階層をのぼってゆく。しかし、どこまで行っても予測が可能ではないパターンは、新皮質の最上位である海馬にまで至り、そこに蓄えられる。つまり、来たるべき新たな予想や解釈が可能な時が訪れるまでそこで待機される。しかしそれは永遠には残らず、新たな予測によって下位の新皮質に降りてゆくか、またはたんに消えてしまう。だからこそ、海馬が損傷すると「新しいこと」を記憶するための「待機」が不可能となって、記憶できなくなるのではないか、と。
●以上のような議論が興味深い理由。
(1)ぼく自身の実感にとても近いところが多くあること。(2)感覚と運動と思考とを同一の形式で(もっと言えば「同一の行為-過程として」)捉えることが可能であること。(3)層構造がさらに層構造をなし、そこに双方向の情報が相互作用しているという複雑な入れ子構造は、その構造のなかで(あくまでその構造全体の相互作用のなかで)、「新たな対象」が(パターン、パターンのシーケンス、シーケンスのシーケンスとして)形成されたり、繰り替えられたり、あるいは一度生まれた「対象」が層構造のなかを降りてきたりという様を描出可能で、脳という具体的な対象扱いながらもとても抽象性が高く、ダイナミックで自由度も高いこと。(4)ここではあくまで層構造が強調されているけど、例えば、柱状構造において、第五層からの情報が視床を経由して第一層へフィードバックされたり、第六層からの予測が、下位の領域へ出力されるだけでなく、同位の第四層に再入力されたり、また、どの細胞も他の遠い領域へと多くの軸索を伸ばしているとされるなど、いわば層構造とネットワーク構造のハイブリッドとして捉えられていること。(5)このような脳の描像が、例えば精神分析オートポイエーシス論などの知見と、相容れない部分をもちながらも相互補完的関係を持ち得るのではないかと期待されること。