●天気が良かったので電車に乗ってでかけ、アートプログラム青梅の屋外設置の作品を見てまわった。たっぷり午後いっぱいを使って、青梅駅から東青梅駅の間をマップを見ながら歩き回った。面白い作品もつまんない作品もあったけど、こういうのって、作品がどうこうよりも、人を歩き回らせるということがまず重要である気がした。はじめて(に近い)土地を迂回させながらぐるぐる歩き回らせる。それに、私道みたいな細い路地とか、高校の敷地のなかとかは、「作品を見る」という理由づけがない状態で、普通に散歩していたなら気になってもなかなか入っていけないけど、作品があれば堂々と入っていける。だからこういうイベントの場合、作家にとってまず重要なのは、どのような作品をつくるか(作品そのものが面白いか)というより先に、人をそこに誘いたい「面白い場所」を見つけることが出来るのか、ということなのではないか。面白い場所に誘ってくれたら、作品はただ「しるし」だけでもいいんじゃないだろうか、とさえ感じる。実際、「ああ、この場所をみせたかったのか」という作品に面白いものが多かったように思う。
そういう意味ではとても面白かった。しかし逆説的に思ったのは、もう少し突っ込んで、作品が、実際の風景や土地のもつ強さや多様さに拮抗するだけの強さを持つことを目指すとしたら、その「土地のなか」にあるのではなく、「別の場所」にあることが必要なんじゃないだろうかということだった。「別の場所にある」というより、「別の場所にする」といった方がいいのかもしれない。その場所に対する異化の面白さだけでは作品としては弱くて、何かしらの形で場の抽象化が必要で、そのために、環境の内部にありながら環境を切断する(異次元化する)何かしらの操作が必要なのではないだろうか。それは必ずしも美術館やホワイトキューブという制度的な空間を必要とするということではないと思うのだが。作品が屋外に置かれる場合、作品それ自体が、作品と同時に作品が設置される場所そのものを作り出す作用を持っている必要があるのではないか。作品が設置されることで、その場所が「その作品を設置するための場所」へと変質するような効果を内包した作品というのか。
それはつまり、環境と関係し合うこと(相互作用すること)と、環境から自律することとが、両方同時に成り立っているということだと思う。前者が、「もの」という次元の存立条件であり、後者が「作品」という次元の存立条件であり、その両者が同時に成立することで、作品は作品となるのではないだろうか。作品は「そこ」と調和することを通じて、「そことは別の次元」を立ち上げ、その別の次元において環境と一定の「関係」をもつ。これはなにも、屋外に設置されるインスタレーションにだけ言えることではなくて、美術館のなかに絵画作品を設置する場合であっても同じで、その展示は、環境と響き合って(連続性を持って)いながらも、環境から自律し、その自律によって環境に対して一定の関係をもつようになされなければならないと思う。「〜ねばならない」というのは主義主張の問題ではなく、実践的、技術的な問題であって、そうしないと十分な「強さ」が得られないというようなこと。
あるいは「ぼく」がそういうものを求めている、ということに過ぎないかもしれないけど。
青梅市立美術館にも寄って、自分の作品をこっそり携帯で撮影した。下の写真がその一枚(ちょっとピンぼけ)。タイトルは「P/G (plants/geography)」。キャンバスに油絵具。サイズは130センチ×130センチ。2011年制作。




●明日は最終日なので、午後一時すぎくらいから美術館内をうろうろしていようと思います。