●アートプログラム青梅2011は今日で終了しました。展示した作品の写真をもう一点だけアップします(こちらもちょっとピンぼけ)。タイトルは昨日の作品と同じ「P/G (plants/geography)」。サイズは100センチ×80センチ。素材はべニアパネルに油絵具。2011年制作。




●『輪るピングドラム』第20話。
「与えられることばかりを人々が望むようなこの社会は間違っている」というピングフォース(KIGA)の思想と、「果実を与えてくれない人にキスを与えてばかりいると空っぽになってしまう」という陽毬の思想は、真逆を向いているようでいて、「かわいいは消費される」という認識においてはおそらく一致している。ピングフォースと陽毬の同質性は、少女時代の陽毬の住処とピングフォースの集会所(?)が同じ場所にあることにもあらわれている。ここで新たな場所があらわれている。捨て子たちの家族(高倉家)が暮らすバラック建てのカラフルな平屋、苹果の住む、大金持ちではないとしてもそれなりに裕福な人が暮らすようなマンション、芸能人(時籠+多蕗)や大金持ち(夏芽)が住む絵空事のような場所、あるいは結婚前の多蕗が住んでいた単身者向けのアパート、そのどれとも違う、古びた、そして巨大で均質な集合住宅。古びた、というのは、たんに時間の経過だけを言うのではなく、今後どんどん人口が増えてゆくことが想定された高度経済成長期に構想されたであろうという意味で、コンセプトとしても古びてしまって忘れ去られたかのようで、おそらくそれによって荒んだ印象を受ける場所。そこは、平均よりやや貧しい「家族」、あるいは元家族(子供の独立や伴侶との死に別れによって単身者となった人)の住む場所であるという意味で、多蕗の元のアパートとも性格が異なる。そこは「家族」あるいはその記憶の(忘れ去られた)場所だ。そしてこの集合住宅のイメージが、おそらくそのままこどもブロイラーのイメージとつながっている。多数の、均質な(透明な)人たちの住む集合住宅。だから、もし陽毬がこどもブロイラーで粉々にされ、透明にされたとしても、おそらく再び、この集合住宅に「適応した」形でもどってくるということなのではないだろうか。ピングフォースというテロリストの集団は、このような集合住宅を母体として成立している。だから、ピングフォースと陽毬が同質的な思想の根をもっていることも不思議ではない。
だがここでも、陽毬以外の住民の姿をみることは出来ない。集会に集まる人々は、ただその「靴」によって表現されている。モブシーンが記号的に処理されていることと同様に、集合住宅の住人は文字通り「透明」である。ここまでの「ピングドラム」はつまり、何かしらの形でこの「透明な人々」の層から零れ落ちてしまった人たちの物語であったと言える。「零れ落ちる」という言い方は両義的で、排除されたということでもあり、選ばれたということでもあろう。「選ばれなかったら死んでしまう」という言葉はまさに、この作品において、主要なキャラクターとして「選ばれ」なければ、作品のなかで「透明」であるということでもある(だから本当は、陽毬の「運命の人」は晶馬ではなく幾原邦彦なのだが)。それは言い換えれば逆に、この集合住宅の存在が、この作品の裏に常に潜在的な形であり、裏で作用しつづけていたということだと思われる。だからこの作品の「深さ」は、サネトシのいる記憶の図書館にあるのではなく、集合住宅の透明な住人たちの場所にある。
偉大な(異常な)父をもち女優である時籠、偉大な(異常な)祖父をもち資産家である夏芽は、どちらもあらかじめ選ばれた人物であり、「捨てられる」ことはない。むしろ、親(家族)が亡霊となった後でも憑りついていて決して「捨ててくれない」ことこそが問題であった。テロリストの親をもつ高倉家の兄妹もまた、(実際には親から捨てられながらも)親のした行為を「印づけられて」いるという意味で、その印から逃れられない(捨てられているのに捨られたことにならない)。だからこの人物たちは皆、こどもブロイラーとは無縁である。一方、当初「才能」によって選ばれていた多蕗は、更なる才能の出現によって「捨てられ」、おそらく当初「かわいい」によって選ばれていた陽毬は、「かわいい」が消費されて「捨てられ」る(彼女がアイドルを目指していたということは、自らの意思によって「かわいいの消費」を操作したいという皮肉な欲望によるのかもしれない)。だがこの二人は、桃果や晶馬に「再び」選ばれることで、この作品の作中人物となる。一方に、捨てられたいのに選ばれてしまった人がいて、もう一方に、選ばれたいのに捨てられてしまった人がいる。
ここでも苹果は特権的な人物であろう。両親にとって彼女は姉の桃果のネガティブな影でしかなく、はじめからこどもブロイラーに最も近い「透明」な位置にいる。だが、彼女は自分の意思によって自分を消そうとする。しかし彼女は透明な存在になるのではなく、先行するモデルとしての「桃果」になろうとした。自分を消滅させて「桃果として機能するもの」になろうとするのだ。彼女は家族から選ばれようとするのではなく、家族の再生過程において「機能する何か」になろうとする。だがその行為は限りなく空転、脱線、逸脱し、目的は果たされないのだが、その行為の空転によって目的とは別の関係(晶馬や高倉家の兄妹との関係)を見つけ出すことができた。つまり苹果は、桃果を媒介とすることで、自分自身(晶馬への欲望)を自分で「選ぶ」ことに成功する。苹果は、晶馬から選ばれるより前に、「晶馬を選ぶ自分」を、自分自身で「選んで」いる。だからおそらく、苹果が苹果であることは、晶馬から「選ばれなかった」としても成立する。
●「かわいいは消費される」というのは本当なのか、ぼくはそもそもそこに疑問があるのだが。というか、この作品は最後にはそこをひっくり返してくれると期待しているのだが。
●「ゲーム上の楽なポジションにいたいがために追いかけても逃げてしまう」というサネトシの言葉通りに、晶馬は依然として覚醒せずに、自らの欲望を表明しない。陽毬を「選んでしまった責任」に思い悩むことは、この状況ではほとんど意味がない。彼が「何をしたい」と欲していて、そのために「どのような行動に出る」のかが、けっこう大きなポイントとなるのではないだろうか。