●『甘い罠』。シャブロルの映画には不思議な(というか不自然な)交差的組み換え(組み合わせ)があちこちに見られる。この映画でも、母のない父と息子と、父のない母と娘がいて、その息子と娘は生まれた時に病院で取り違えられた過去をもつ。だがこの映画では、子供が入れ替わったということが重要なのではない。実際、取り違えのミスはすぐに気づかれ、訂正されたことになっている。ここで重要なのは、実は間違いであるはずのその取り違えこそが運命であり、血のつながり以上に正しかったということだ。一方の父は高名なピアニストであり、一方の娘はピアニストを目指している。そして父は娘のなかに才能を出だす。遺伝的には取り違えは間違っていたが、事実上は正しかった。
●この娘の母の夫、つまり実の父は、子供をつくることの出来ない体質であり、母は精子バンクを利用した人工授精によって彼女を生んだと言っており、だから彼女は、遺伝学上の匿名の父と(あらかじめ失われている)、亡くなった父と(死によって失われた)、ピアニストとしての父(新たに見出された)の、三人の父をもつことにもなる。
●父を亡くした母の娘はピアノによって「父」を見出したが、もう一方の、母を亡くした父の息子はどうだろうか。父の結婚(父は、「前妻-息子の実の母」の死後に、その前の元妻と再び結婚する)によって「母」を得たと、とりあえずはいえる(娘が、誕生時の「取り違え」エピソードを知って父を訪ねるのは、新聞に載っていた父の結婚の記事がきっかけであるから、娘もまた、父の結婚によって「父」を得たことになる)。映画の冒頭はその結婚パーティーの場面で、見た目にはこの母と息子の関係は親しい友人のようで、良好であるようにみえる。だが実は、この新しい母こそ、彼の実の母を死に追いやった、つまり彼から母を奪った張本人である。
父の結婚という出来事をきっかけに、母の娘は父を見出し、父の息子は母を得るという交差入れ替え的で対称的な関係が生じているように見えるが、実はその一方が偽の関係であることになる。結婚によって生じた、非遺伝的でポジティブな、父-娘と母-息子という似通った二つのペア-関係は、内実は異なっている。この、父-娘関係と母-息子関係だけでなく、関係の配置上の位置が似通っているが、内実はまったく異なっている二つのものが、この映画には多く出てくる。そしてそれらを、強い感覚喚起によって象徴するのがココアとコーヒーという二種類の飲み物であろう(形態的には、ココアを入れる魔法瓶とコーヒーケトルの違い)。
●(病院の看護婦が間違えたと言う)取り違え-取り換えこそが正しくて、医学上正当な遺伝的なつながりより優位にある(娘の母は医者であった)。実際、父の前妻(息子の母)と、血のつながりのないはずの娘は容姿も似ている(父との音楽的つながり、母との形態的つながり)。
さらにまた別の取り換えがある。ピアニストによる妻の取り換えだ。ピアニストは、妻1と妻2を取り換える。交差的組み換えが支配するシャブロルの世界では、おそらくこの取り換えは正しかったのだろう。しかし取り換えられた側からすれば、素直にそれを認めるわけにはいかない(息子もまた同様に、父と強く結びつく娘の出現をかならずしも快くは感じていないだろう)。取り換えられた妻1は、失われた関係を回復するために妻2を殺すだろう(対して息子は、当初快く思えなかった娘を次第に受け入れ、連携するようになるだろう)。しかし、女の殺人-策略によるこの二度目の取り換え(入れ替え)は偽のものであるしかなく、結婚という正式な契約も(科学的遺伝的つながり同様)無力なものである。その証拠に、結婚によって妻の座を取り返したとたん、その間違いを指摘されるかのように、夫婦の前に誕生時の「取り違え」によって既につながりが保障されていた娘が出現してしまうのだ。世界の法則(正しさ)が女の前に指示される。
●そこで、世界の正しさに抗する者である女は、再び殺人を犯さなければならなくなる。一度目の殺人時は、ココアのなかに入れられた睡眠薬が、二度目にはコーヒーに入れられる。しかしココアとコーヒーは同じものではない。彼女はチョコレート会社の経営者であり、ココアにならは一定の(「正しさ」を捻じ曲げる)「魔力」を作用させられるが、その力はコーヒーにまでは及ばない。それに、息子と娘は、既に「正しさ」を認めて連携していたのだった。