●まだ読み始めたばかり(一章と二章まで読んだたけ)だけど、『魂と体、脳---計算機とドゥルーズで考える心身問題』(西川アサト)がすごく面白い(「西川アサキ」でした、名前間違えてしまって失礼しました)。一章、二章では(サブタイトルにある)ドゥルーズというより主にライプニッツ(ドゥルーズによって注釈されたライプニッツ)について語られる。『シネマ』さえも、ライプニッツへの注釈書として読まれる。《…本書の主要な「登場人物」は、ライブニック、ベルグソンドゥルーズといった哲学者達だが、彼らの著作に対する注釈書ではない。彼らの本を今読むためには、どうしても彼らが「書いていないこと」まで展開してしまう必要を感じるからだ。その道具として、「中枢」という概念と、そのコンピュータ・シミュレーションがある。》なぜドゥルーズは、「欲望機械」という概念から(「後退」とも感じられる)「有機体」に移行したのか。あるいは、システムは「中枢」などという概念抜きでも上手く働くのに、それでもなお「中枢」がなぜ存在するか。
●『建築と日常』の打ち上げにお邪魔させていただき、岡啓輔さんの蟻鱒鳶ル(Arimasuton Building)を見学する。一年ぶりくらいにお会いした利部さんが懐妊されていた。
●『輪るピングドラム』第23話。分裂と抱擁。まず一つのものが二つに分裂される。世界を焼き尽くそうとするサネトシが桃果によって二つに引き裂かれ、世界を救おうとする桃果がサネトシによって二つに引き裂かれる。16年前、二つの力が相殺され、そこで世界はいわば保留される。「ピングドラム」の世界は、世界の破壊が保留され、陽毬の死が保留される世界だ。
次に抱擁。晶馬は、三人の人物と抱擁する。最初に苹果と、次に陽毬と、最後に冠葉と。抱擁は、二つのものが一つに重なることだ。そして、二つの矢印によるリサイクルマークのような「ピングドラム」のマークは、この、分裂と抱擁とをともに現す。矢印は二つある。それは分裂しているが、だからこそ抱擁が可能である。
●様々な二がある。冠葉と晶馬、陽毬と晶馬、苹果と晶馬、桃果と苹果、苹果と時籠、陽毬と夏芽、冠葉と夏芽、サネトシとペンギン帽子、二つに割かれた日記……。二つものは分裂することによって繋がり、繋がることによって分裂する。裏は表にひっくり返り、対立は、それぞれの場所を反転することで重なり合う。冠葉と晶馬は、対立が決定的になることではじめて抱擁が可能になった。
●サネトシは、白い衣装(白のなかにわずかな黒)で、プリンセス・オブ・ザ・クリスタルは黒い衣装(黒のなかに僅かな白)だ。その意味で二人は相補的である。しかし、白いサネトシが黒ウサギ(黒)を分身としてもつのに対し、黒いプリンセスはペンギン(白黒)を分身としてもつ。サネトシは黒い影しかもたないが、プリンセスは白と黒の影の二つの影をもつ。白と黒は分裂であると同時に抱擁可能性であるが、二匹の黒ウサギは同質であり(つまり一と一であり)、分裂もしていなければ抱擁も出来ない。
●様々な二のなかでも特権的な二である陽毬と苹果という二人のヒロインが、ともに最終回を前にして退場してしまうなどということがあるのだろうか。最終回でも何かしらこの二人が絡んでくることを期待したい。
●昨日の日記について磯崎さんからメールをいただきました。設定としては語り手は60年生まれくらいで、83年に「二十歳になったばかり」というのは、必ずしも二十歳ぴったりということではなく、そのあたりは意図的に曖昧にしてあって、実際に磯崎さん自身、二十二、三歳くらいまで「二十歳になったばかり」という感覚だった、ということです。
二十歳になったばかり、というのはだから、二十歳の誕生日を迎えて間もなくという意味ではなく、二十代に入ったばかり、というニュアンスだということになります。とはいえ、ここであえて(磯崎さん自身の感覚を正確に反映させて)《二十歳になったばかり》と書いていることによって、ラストでズレの感覚が生まれることは確かだとは思います。