●テレビを点けていても面白くないので、DVDで『キック・アス』をぼんやり観ていた。
ぼんやり観ていた感想でしかないけど、『キック・アス』は確かによく出来ていると思うけど、アメリカのヒーロー物ってなんでこんなにシリアスというか、陰惨な印象になるのだろうかと思いながら観ていて、そして、ラストにはどうしても納得できなかった。
最初、ヒーローにあこがれる駄目な男の子が苦い目に合いながらも成長してゆくという王道の話をオタクカルチャー的にひねったものかと思っていると、いつの間にか復讐に燃える殺人マシーン父娘の話になってゆく。この二組の共通点はヒーローのコスプレをしているということだけで、全然ちがうものに話がすり替わってしまう。
この父娘には人を殺すことにほんのわずかのためらいもない。父の方にはまだ「復讐の動機」があるけど、娘には動機すらなく、ただ父に一方的に洗脳されて殺人マシーンとして育てられてしまっている。この娘(ヒット・ガールと呼ばれている)はまさに「ピングドラム」的な意味で「運命」をあらかじめ刷り込まれてしまっている子供だといえる。
もともと動機のない娘に、「父が敵に殺される」ことで動機が生まれ、娘が敵陣の乗り込んでゆく場面がクライマックスなのだが、これはもうまったく正義なんかじゃなくて「呪い」と「復讐」で、しかもこの呪いと復讐は本来この娘が背負うべきものじゃないのに父によって強制的に刻み込まれてしまったものだ。この娘は濃縮された純粋な呪いだと言ってもいい。だからこのクライマックスは全然スカッとしないで、そのシリアスさに観ていて心が重くなってゆく。さらに、娘によって全滅させられたなか唯一生き残ったマフィアのボスの頼りない息子(レッド・ミスト)は今後いったいどうすればよいのだろうか。キック・アスは、ヒーロー体験を通じて成長し、彼女まで出来たのだが、このレッド・ミストは、成長の機会すら与えられないままですべてを失ってしまうのだ。彼もまた、父がマフィアのボスであったことで、あらかじめ呪われた子供なのだ。相手がマフィア(麻薬密売組織)の一員であれば人を殺すことに何のためらいも無いヒット・ガールが、レッド・ミストだけは殺さなかったのは、彼が自分と同類であることを感じていたからではないか(「ビック・ダディ-ヒット・ガール」という関係と「マフィアのボス-レッド・ミスト」という関係はほぼ同型であろう、呪いの継承と、相手側に父を殺されるというところ)。
例えばタランティーノだったら、このような「悲惨な復讐の物語」そのものをまるっとキッチュとしてしまうだろうし、ティム・バートンだったらヒット・ガールというアイコンに屈折の濁った調子を響かせるだろう。つまりここに明確に刻まれているシリアスで悲惨な「呪い」と「復讐」について、「その作品としての態度表明(距離の取り方)」が何かしらの形で示される。つまり作品が作品として悪と呪いを自覚する。しかし『キック・アス』では、ここにあるシリアスさを勢いとポップさでスルーしてしまうので、見ていて、えっ、そこスルーしちゃうの、と思い、混乱してしまう。
例えばこの映画がはじめから、ヒーローと悪者とのバトルを無責任に楽しむようなものならば、そこをスルーしても別に何ということもないかもしれないけど、これは一方でリアルな少年の成長の話でもあり、そしてこの少年は最後に殺人マシーン少女の復讐に加担することになるのだから(彼は自らの意思をもって「手を汚す」、これは自らの失策によってビッグ・ダディを死なせてしまったことへの彼としての落とし前であり、ヒーローのコスプレをして一日一善的な「良いことをする」こととは違う)、復讐が最後にまた正義とすり替えられて、そのままめでたしめでたしになるという終わり方は成り立たないのではないかと思ってしまう。
この映画が何の抵抗もなく「復讐」と「正義」とを混同するのは、復讐の相手が麻薬密売組織であり、どのような保留の余地もなく「悪」であると想定されているからだろう。しかし、マフィアの上層部であればともかく、殺人父娘は下っ端の売人たちですら何の躊躇もなく殺すのだ(それは、仮面ライダーがショッカーの下っ端を「やっつける」こと、あるいは時代劇での様式美としてのチャンバラなどとは全然違って、明確に殺人場面として描写される)。その殺人は、たとえキック・アスを助けるためだとしても過剰すぎる。別にここで、どんな悪人であっても殺すことは許されないといった倫理を振りかざしたいのではない。本当に人が死んでいるわけではないし。ただ、あれだけ派手に殺しておいて(ヒット・ガールの殺人は、ホラー映画で悪霊が無差別に人を殺すこととほとんど変わらない)、主人公たちが自らの内に宿った「悪」や「呪い」をまったく意識することなく、屈託のない調子で映画が終わるのは、どうしても納得できないということ。
キック・アスという人物、または『キック・アス』という作品は、そこに明らかに刻まれている「悪」や「自ら手を汚す」という行為を、そこで生じる「呪い」を、見て見ぬふりをしたまま、なかったこととしたまま、作品を終わらせてしまう。そこがどうしてもすっきりしない。
●おそらく、ぼくのこういう見方はすこしズレているかもしれない。『キック・アス』という作品を凡庸な作品から隔てているのは「ヒット・ガール」というキャラクターの強烈さであり、それはこの殺人マシーンが十二歳くらいの(少女というよりまだ)幼い子供であり、さらにそこに(「子連れ狼」の大五郎のような)暗い影が一切付与されていないという点にある。彼女は内面のない純粋な少女という(受動的な)形象であり、そこに高度な殺人マシーンという(能動性がきわめて高い)イメージが重ねられているところがきっと、人の関心を誘うのだろう。そんな彼女が自分の「呪い」を自覚してしまったら、「影のある闘う女(女囚さそりとかスケバン刑事みたいな)」という旧来からあるキャラクターに近づいてしまう。影のない平板さこそが、逆説的にヒット・ガールというキャラの「深さ」となっていて、それが人を惹きつける。不幸であるはずなのに、それを感じさせない明るさをもつ、というキャラは、その明るさによって不幸(内面)が深さとして際立つ(けなげなキャラ)。しかしヒット・ガールは、その平板さによって「不幸(内面・深さ)」を意識(あるいは作品世界)から消去させる。そしておそらく、この平板さのリアリティはコスプレのリアリティと通じる。
三次元でありながら深みを欠き「平板」である世界に住む(半ば二次元である)少女と、成長し彼女をゲットするという現実的、三次元的な厚みのある世界に住む少年とが出会うことを可能にする空間が、コスプレという二・五次元の世界であり、この『キック・アス』という作品の世界なのだろう。麻薬密売組織が、キック・アスの住む三次元ではなく、ヒット・ガールの住む二次元に近い世界に属する存在であるとすれば、その大量殺戮もまた、厚みをもたないものとなるかもしれない。
キック・アス』という作品に優れたところがあるとすれば、それはヒット・ガールというキャラの「平板さ」を最後の最後まで維持することに成功しているところだ、と言えるかもしれない。物語的には欺瞞としか言えない混同や見て見ぬふりを強引に押し通してまで、『キック・アス』という映画作品は、ヒット・ガールというキャラの「平板さ」を優先し、それを守ったのだ、と言うことも出来る。