●『魂と体、脳』(西川アサキ)、とりあえず最後まで行った。この本は基本的に、モナドジーという特異な世界観(設定)から、いかにして常識的に納得されるような形の心身関係が構成(創発)されてゆくのかという過程がシミュレーションとして描かれていると言えると思う。その「過程」がまったく驚くべきものなのだが、だとしても、結果としてそこから「常識的」なものへと着地することの「必然性」が見えてくることになる。常識は最善ではなくても必然ではあり、やはり強力なのだ、と。勿論、そのような常識が創発されてゆく過程とメカニズムの詳細な描出は、常識のまったく別の顔を顕わにし、常識が決して盤石なものなどではなく、常に揺らいでいるし、隙間が到るところにあることを示すのだが。
それはそもそもこの本のはじめの方で提出される、ドゥルーズが何故、欲望機械という過激な概念から、いわば後退するような形で(もう少し常識的な)「有機体」ということを問題にしなければならなくなったのかという問いと繋がっているように思われる。つまりこの本は、世界の変革やその可能性について、華々しく、過激に語る本というよりも、「世界がこのようなものとしてあってしまう」のは何故なのかという問いを問うという調子をもつ。モナドジーによって世界はこのように説明できる。であるなら、その時に、「常識」にはどの程度の必然性や蓋然性があり、どの程度に強固で、どの程度なら変革可能であるのか、と。
食うに困らぬ程度に裕福であり、社会にも余裕があるのならば、難解な哲学や芸術も許容しよう。でも、もはや社会は(世界的にも)逼迫し、ましてや地震の後で多くの人が苦しんでいる時に、浮世離れした抽象的な論理を組み立てたり壊したりすることに意味があるのか。もっと言えば、目の前で人が死のうとしている時でも、お前はそんな抽象的なことをちんたらと考えているつもりなのか。このように、困難な時、常識(的リアリズム)はものすごい恫喝的な力をもって回帰してくる。表面上にはっきりと浮上することはないが、この本では、まさにこのような常識の力に抵抗するためにこそ、その常識の内実について出来る限り詳細に追及されているように感じられる。
そしてこの本は、全体としてその答えを示しているように思われる。「困難な時にも哲学は必要か」という常識的問いは間違っている。困難であろうがそうでなかろうが、人が「死ぬ存在」である限りどんな状況であろうと哲学から逃げ切ることは出来ないのだ、と、語っている(というより、示している)ように思う(まるで高橋洋が「呪いからは決して逃げ切ることが出来ない」と作品を通じて繰り返し示すように)。その時哲学は、死への抵抗(というより、「人は一回限りの生をもち一回限りの死をもつ」という「常識」への抵抗、あるいは敵意)としてあらわれるように感じる。最後の方で、この本は「科学(「常識(=共可能性?)」の側にある?)」ではなく、《間違っているかもしれない世界観を性急に妄想する》「形而上学」であり、もっと言えば「宗教」と言ってもよいという風に書かれている。
●六章までは基本的に「いかにして常識的なものが構成されるのか」だったのが(その「説明のされ方」が常識はずれなのだが)、七章では、(「常識」を説明する常識はずれの過程をふまえて)常識から外れた「経験」が少しだけ問題とされる。そこから少し引用したい。ぼくにとって最も重要な問題はこっち側にある。
《不確実性があるところに意識があるとしよう。それが最も集中するのは、常識的な中枢の内部、閉鎖された支配的モナド内部の自己対話だろう。しかし、不確実性はどこにでもある。つまり中枢内部に閉じ込められている必要はない。ならば、意識には、中枢や支配的モナドは必要ない。「不確実性の中心」は、実は意識の必要条件ではない。だから、脳がなくても意識はある。》
《おそらく、このような状況を描く映画を、ドゥルーズは「思考の映画」と呼んでいる。『彼女について私が知っている二、三の事柄』には、コーヒーの泡が密集し多細胞生物のように見えるショットがある。また分身のようなキャラクターが沢山出てくる。そこでは、個性がないことが救いだ。人称が壊れ、それぞれの人物は、たまたま何かを語るためそこに沸くがそれ以上の持続をもたない。それらはある一瞬だけ、何かを語るために支配的になる萌芽的中枢だが、その後消える。つまり、出来事と主体の区別がなく、全体が「一つの思考」という出来事になっている。》
●この本を読んだ後、同様に世界を二人称的なやり方で捉えようとしている郡司ペギオ-幸夫紀伊國屋でのブックフェアのために書いた「内側からみた偶然=仏陀の微笑」という文章を改めて読んでみた。
http://bookweb.kinokuniya.co.jp/bookfair/prpjn67.html
ここで郡司ペギオ-幸夫は、二者関係の根本にあるものを「仏陀の微笑」という、世界(半ば自然、半ば他者)からの無償の贈与のようなものに置いているけど、西川アサキは、二者関係の根本を普通に経済的な交換に近いもの(つまり自然というよりも他者)としてモデル化しているというところがちょっと違うのかもしれない、と思った。