●昨日の日記の書き方だと、ちょっと自分の関心の方に惹きつけすぎていて、『魂と体、脳』を読んでない人が読むと、偏っていて鬱陶しい感じの本ではないかという間違った先入観を持ってしまうかもしれない。しかし、『魂と体、脳』を読んでまず感じられるのは、特別に頭のいい人の書いたものを読む時に特有の、世界や頭の中がパカッと開かれるような感覚であり、または、どんな分野においても「冴えた人」の仕事から感じられる爽快感のようなものだ。
●まずその点を確認して、しかしもう少し勝手に自分の関心に惹きつけたことを書く。ごく粗くざっくり言えば、この本は、常識的なことがどのように成り立っているのかというその構成を、まったく常識的ではないやり方で描き出していると思う。その時、常識は、常識でありながら、常識ではないものになる。常識の外見はそのままで、その中身が入れ替わる、と言えばいいのだろうか。それは、常識はやっぱり必然であるということと同時に、しかしその必然の持つ意味が全然違ってくるということでもある。心身二元論を否定するとか、一つの主体ではなく複数の主体があるとか、そういうことを「言うだけ」なら簡単だし、一見かっこいいけど、やはり主体とか中枢とか有機体とか、そういうのってすごく強い。どうしたって、私は私一人だし、私は死ぬし、死んだらおしまいだ、という感覚は強くあり(強く残り)、そのような重力は少し気を緩めるとすぐに支配的になる。ドゥルーズの『シネマ2』にとりあげられる映画は、『シネマ1』にとりあげられる映画に比べ極端に少ない観客しか持てないだろう。そこには一定の必然がある。ただ、その必然性は、我々が常識的に必然だと思っているのとは、必然のあり様が大きく違う(と、考えることもできる)、ということが示される。ここでは、きらびやかな反常識(非常識)が展開されるのではないし、その逆の、主体や中枢への回帰が(やはり、なんだかんだ言っても常識は大事だよね、と)主張されているのではない。
ここでは、世界への諦めと希望とが、決して別物ではない「同じもの」として描出されているように感じる。
●だから昨日の日記の引用は間違っていたかもしれない。「脳がなくても意識はある」ということくらいなら、他にも言っている人はいるだろう(ベルグソンとか)。あるいは、ゴダールの映画についてだって、あのくらいのことならちょっと気の利いた人なら言えるかもしれない。この本は、そこだけ取り出してもあまり意味がないと思う。そのような非常識な(先鋭的な)ことを(スローガンや啖呵ではなく)本当に言えるためには、常識の内実の方もちゃんとそれに見合ったものに、つまり常識と非常識が重ね書き可能な描像として、書き換えられなければならない。重力の作用(外見)はそのままで、反重力とも両立可能なものへ、組成をまったく別物にしなければならない。現実をそのまま受け入れながら、その中味をまったく入れ替えなければならない。モナドジーという世界観=ゲームの規則(または信仰?)は、そのために(常識と同時にある「非常識」を信じられるものとする高解像度の描像を得るために)用いられるのだと思う。そこに至るまでの、そう言えるために積み重ねられる、様々な試行錯誤やシミュレーションやアイデアで組み立てられた過程(世界のシステム論的な描像)の冴えがすごいということなのだ。
●その上で、この本に書かれている最も重要なことは、「構造と出来事は(タイムスパンが違うだけで)別のものではない」ということと、「不可能なものは感覚(経験)可能である」ということだと思う。この二つのことが本当に体感できるとすれば、私(のある部分)が、「人は一回限りの生をもち一回限りの死をもつ」という重力が作用する場所とは違う場所で、別の構造=出来事の一部分とることもあると言えるかもしれない。