●散歩をしていてふと思った。昨日の日記で、『魂と体、脳』について暑苦しい感じで書いたけど、でもそれはこの本に限った話ではなく、「哲学」というのはつまり、そういうことをするということなのではないか、と。
というか、ぼくにとって哲学が必要なのだとすれば、そういうことなのではないか、ということ。なんというのか、うんざりするほど、みもふたもなく常識的なこの世界のなかで非常識を貫いて生きようとしても、ちょっと格好良かったり美しかったり物珍しかったりするスローガンや啖呵やイデオロギーでは、常識の強さに対して持ち堪えることが出来ない。それじゃあ全然足りない。結局、様々な格好良いもの美しいもの物珍しいものを次々に消費するという「常識」にハマってしまう。常識の強さに耐えうるためには、相応の密度と強さをもった何か(常識を包摂する非常識)が必要で、それが哲学ということではないか、と。この時、密度や強さとは一面で論理的な一貫性や精度であるけど、もう一方では信仰の密度と強さのようなものではないだろうか。というか、信仰の強さを受けとめ得るだけの、論理的な制精が問われるということか。
●とはいえ、『魂と体、脳』には、「出来事と構造は別のものではない」ということが書かれていた。一時的な物珍しさも、確固たる信仰も、タイムスパンの違いがあるだけで、本来別のものではない(どの「物珍しさ(出来事)」が結果として「信仰」にまで発展するのか事前には分からない、あるいは複数の「物珍しさ(空気)」があることで、「気づき」が可能になる)。そこの柔軟さは忘れてはいけないと思うけど。