●ドラマ化された『その街の今は』がフジテレビで放送されると知らされたので、観た。小説に書かれていることと、それを「テレビドラマ」として成立させることとを両立させるためのいろいろな試行錯誤が感じられて(俳優の選び方とかも、これ以上派手にしたら嘘っぽくなるし、地味にしたら「テレビドラマ」として難しいだろう、とか)、ちゃんと小説を読んでいる人が丁寧につくっているんだなあという感じで最初は観ていたのだが、ドラマが進むうちに、たんに小説を丁寧に読んでいるというだけでなく、もっと踏み込んでいて、柴崎友香論とも言えるものになっていると思い直した。
例えば、最初の方で、良太郎と会った前の晩の短いフラッシュバック的な回想が入るのだけど、ここで回想は入れちゃ駄目だろうと思い、でも、テレビドラマとしてはそういう分かり易さが必要なのかなあとも思った。短いフラッシュバックはギリギリの妥協なのか、と。しかし、後の方になってきて、小説にはない、主人公の(大げさな言い方になるけど)イタコ的体質があきらかにされて、死者を見たり、古い大阪の写真のなかに入って行ったりするところを観て(やり過ぎると危険だと思うけど、やり過ぎてはいないと思った)、あのフラッシュバックは「妥協」などではなく、「積極的」に付け加えられたものなのではないかと思った。それは主人公の記憶である以上に、過去から主人公への視線なのではないか、と。
最初の方で、路地の奥から主人公を見つめている(過去からの?)視線があったり、主人公が働く喫茶店の向かいの店から、店長をいつも見ている女性の眼差しがあったりして、そういうのを足してくるというのは、相当、柴崎友香の小説を読みこんだ上で、一人称ではありえない「映像」として解釈し直しているんじゃないかと感じた。ただ、『イエスタデイ・ワンス・モア』はちょっとどうかと思ったけど。
つまり、主人公が世界や過去を見るだけでなく、世界や過去から主人公に送られる視線の双方向性が意識されていた。勿論、小説でも意識されているのだが、ドラマでは、主人公であっても、あり得べき複数の視線(登場人物たち)の内の一項であることがはっきり出るので(それにカット数だけの異なる視点があるので)、それによって多数の項(人物、視線)の交換がより強く意識される。主人公が死者を見るのも、普段から写真を通してそれ(死者の生きていた過去)を見ているからであり、写真によって死後と接しているからだろう。それでぼくも、いままでははっきりと気付かなかった、柴崎友香の小説のなかでの「写真」の機能に思い当たった。
写真は、現在と過去を繋ぎ、世界のフレームを多重化させるだけではなく、空間と時間や、生と死の転換(置換)を可能にするような装置で、それによって「同一性(=)」の意味を書き換える装置だとも言えるんじゃないかと。あちらとこちら、あなたとわたし、過去と現在、生と死、時間と空間の「間」を、区切ると同時につなぎ、(それらを二つの「項」として区切り、かつ、繋ぐ、ことで)その相互転換(置換、双方向性)を可能にする「A=B」の「=」の位置に、写真はあるのではないか。それによってラストで、薔薇の写真を撮った人が見た赤と、今、主人公(ドラマだからこれはそのまま「わたし」ではない)が見ている赤が「同じ」だと言えるようになる。
過去を映し出す写真を見る時、現在から過去を見るだけでなく、過去が現在を見る。その時、現在と過去は繋がるだけではなく逆転可能になる。現在=過去が、過去=現在に置換可能だと感じるとき(この場所とあの場所は同じ場所)、現在と過去は、違うけど同じ、同じだけど違う、となって、つまり、違うからこそ、その両項が共鳴可能になる。その共振、共鳴の成立(共振を起こす関係性そのもの)のことを「同一性(あの赤とこの赤が同じ)」と言うのではないか。そして、映像のなかに映りこむ写真は、写真のなかの写真でもあるから、主人公は過去の写真のなかに入り込むこと(移項すること)も出来る。
さらに、ペアを決定するフレームが移動すれば(「=」の機能をもつものが変化すれば)、A=B、B=K、G=A、C=B(主人公=良太郎、主人公=女友達、良太郎=鷺沼、良太郎=岡島、喫茶店=前の店、店長のフラフープと映像のフラフープ、最初の合コン=二度目の合コン)など、様々な異なるペアが発生し、その対置と置換、両項の共振(違うことによって同じ、同じだけど違う)が多層的に重なってゆく。ある「場所(その街)」は、そのようにして織り上げられてゆく。そのような作品世界であるようにみえた。作品が終わった後で、良太郎に会いにゆく主人公と、鷺沼に会いにゆく主人公が、互いに互いを見合っているかもしれない。それはどちらも同じ主人公であり、しかし、一方は「そうしたかもしれない私」で、もう一方は「そうしてしまった私」へと分岐する。
それは、下に引用する文章が言っていることと、とても近いように感じられた。
《(同一的な関係とは)比喩的に言うなら、ライプニッツの体系においてはむしろ、{(A=B)=C}=……Xといった関係が、{=}(イコール)そのものをめぐって重層的に、互いに入れ子状をなす置換関係を成立させながら、展開しているのだと、彼(ミシェル・セール)は解釈するのである。そしてそのイコールの意味や形状は、一つひとつ別のものなのであり、その多様性の追求こそが、ライプニッツの学問の課題なのだと、彼は考えるのである。》
《多種多様な「同一性」を、「結びつき」の問題として捉える解釈の最も特徴的な点は、諸々のセリー---これすらも、先の引用で観たように、相互に置換可能な諸項のマスとしてあるのであり、実在的な項Aであるよりは、(A=B)と記述したような、一つの集まりである---とセリーの関係が、どこまでいっても相互的なものであるということである。むしろそうした相互性が、幾重にも多重化されていくことが、「組み合わせ」的な多様性を保証し、形式の高度の形式性を保証するのである。》
《相互性の形態の純化は、一方では自己関係的で閉鎖的な方向において探求されることになる。しかしその一方で、ライプニッツの体系においては、単なる辞項と辞項のあいだの置換関係だけでなく、そうした円環状をなす置換関係の集まりが描く構造と、別のそうした集合が描く構造のあいだにも、形態照応による一種の置換関係が想定されている、とセールは解釈する。
こうした照応関係を、セールは諸々の「構造」が、互いの「構造」の翻訳、もしくは書き換えになっているような関係であると説明している。この翻訳の概念は、セールの哲学を理解するうえで、きわめて重要な概念である。より自己閉鎖的で純度の高い「構造」は、他の「構造」に対してモデルの役目を果たし、他の「構造」を精密に解明するために役立つが、つねに同じ一方から他方への影響が見られるわけではなく、影響関係が逆転することもしばしばある、と彼は考える。》
(『セール、創造のモナド清水高志 第一章「ライプニッツからセールへ」より)