●「組立」を観に行った時に永瀬さんといろいろ話したなかに、アンチモダンとしてのシュルレアリスムと、アンチポップとしてのオタク的イメージの類似性みたいな話があって、その時に永瀬さんから、しかしシュルレアリスムにはキリスト教(一神教)という要素が大きくあって外せないから、簡単にはオタク的イメージと一緒には出来ないのではないかという疑問が出た。
その点についてずっと頭の端にあったのだが、『野生の思考』(レヴィ=ストロース)を読んでいて、シュルレアリスムキリスト教的なイメージが頻出するのは、例えばネイティブアメリカンの神話に身近な動植物が出てくるのとあまり変わらないのではないかと思いついた。シュルレアリストたちの身近には幼い頃からキリスト教的イメージやエピソードがあったから、それが使われた。しかし、キリスト教的なイメージがキリスト教的ではないやり方で使われ、組み立てられていたのではないだろうか。重要なのはイメージそのものではなく、イメージとイメージの結合のされ方なのではないか、と。
《ところで、神話的思考の本性は、雑多な要素からなり、かつたくさんあるとはいってもやはり限度のある材料を用いて自分の考えを表現するところである。何をする場合であっても、神話的思考はこの材料を使わなければならない。手元には他に何もないのだから。》
《(…)神話的思考の諸要素はつねに知覚と概念との中間に位置する。知覚内容をその生じた具体的状況から抜き出すことは不可能であり、また他方、概念になるためには、一時的にせよ思考がその計画を「括弧に入れ」うることが必要となる。ところで、比喩(心像)と概念の間には媒体が存在する。それは記号である。》
《心像は観念ではありえない。しかしそれは記号の役割を演じうる。より正確に言えば、心像は記号の中に観念と同居することができるし、またもし観念がまだそこに来ていなければ、将来それが来るべき場所をあけておき、陰画的にその輪郭をうきださせる。》
《(…)神話的思考は、心像(比喩)に足をとられてはいても、すでに一般化能力をもつものであり、したがって科学的でありうるということである。神話的思考も類推と比較を重ねて作業をする。ただし、器用仕事と同じように、その創作はつねに構成要素の新しい配列に帰する。つまり、材料の集合の中にあってもでき上がりの配列においても、その要素自体の性質はかわらない。(材料の集合とでき上がりとは同じもので、ただ内部の配列だけが異なるのである。)》
《「神話の世界はでき上がったかと思うとすぐに分解し、その断片からまた新しい世界ができ上がるかのごとくである。」これは深く突っ込んだ見かたではあるが、それでも見落としているところがある。それは、同じ材料を使って行なうこのたゆまぬ再構成の作業の中では、前には目的であったものが、つねにつぎには手段の役にまわされることである。すなわち、所記が能記に、能記が所記にかわるのである。》(第一章「具体の科学」より)
(神話的思考においては、記号はイメージ(具体的な知覚の「残片」)であり、イメージの「宝庫」から素材を探し出して、諸イメージによる「ある配列」をつくり、その配列によって観念を表現する。だからその配列=観念は抽象的でありながら、その素材であるイメージ(知覚)が生じた具体的場面の記憶も留め、表現してもいる。具体的な手触り、の、配列、によってつくられた、抽象的な構築物。手持ちの素材と、手持ちの技術を用いて、みたことのない構造をつくりだすこと。これはぼくが、「抽象」とか「フォーマリズム」とかいう言葉で無理矢理に言おうとしていたことにぴったり重なる。)
●例えばバタイユだったら、神を貶めることによって崇める、ということがあるだろう。それはまさに否定神学としての一神教的信仰であろう。でも、ブニュエルの映画にキリスト教的なエピソードやイメージが出てきても、それはそんなに真面目な感じではないのではないか。ブニュエルにとっては、キリスト教はイメージの貯蔵庫のようなものでしかなく、本気で批判するほど重要なものでないのではないか。キリスト教的なイメージやエピソードを流用して、キリスト教的ではない神話をつくっているという感じではないだろうか。
シュルレアリスムの背景に強くあるのはキリスト教というより、精神分析(無意識)と人類学(神話)と映画(映像)なのではないか。それらは皆、「一」へと統合することの困難さを露呈させるものだ。精神分析は、一人の人間のなかにさえ一つの意識では制御出来ない多(無意識)があることを発見し、その「多」を神話として制御しようとする。人類学は「野蛮人」にも西洋文化に劣らない高度に秩序だった文化があることを知らせ、文化のかたちが一つでないことを示す。映画はまさに、イメージの制御出来なさを露呈する。
しかしそれらは、反作用として、強い「一」(統合)への志向性を発動させる。例えば精神分析の理論は、一方で神話のようにとりとめがない(フロイトラカンも自説をかぎりなく書き換え修正しつづけ、どんどん訳が分からなくなってゆく)が、他方では、父、去勢、象徴界あるいは欠如といった強い抑圧(超越的な「一」への指向)の調子を響かせてもいる。映画では、初期の(シュルレアリストたちが多数参加した)アナーキーなあり様から、次第に人間の感覚-運動図式に合致するような統合的なモンタージュの方法(古典的アメリカ映画)が確立され、産業構造のなかに組み込まれてゆく。シュルレアリスムが生まれる一方、モダニズムの美術は、メディウムの純粋な自己実現を指向し、視覚の一挙性を指向する。
だからぼくは単純に、モダニズムに対してシュルレアリスムを、ポップイメージに対してオタク的イメージを持ち上げているわけではない。多くの政治的言説は、「一」に対するオルタナティブとして「多」を掲げる。しかしそれだけでは足りない。一から多への動きがある一方、多から一への動きもあり、これらは表裏一体で切り離せない。だから、多と一との関係のあり様を考える必要がでてくる。多が一によって代表される、その代表に対して多が異議申し立てをする、というようなあり方(それだと果てしない権力闘争になってしまう)とは別の形として。
一と多は、切り離されつつも、相互に影響を与えつつ関係している。一と多は、別物でありつつ循環している。多でありつつも一であるような「一」の形、一でありつつも多であるような「多」の形が考えられなければいけない。
●例えば視覚について考える。目は、難しい漢字でも細部に注目することなく一目で判読できるし、「ン」と「ソ」の微妙な違いを一瞬で見分ける。しかし、同じ字をずっと見ているとゲシュタルト崩壊して「字」という一つの塊ではなく、個々の線や形に解体されてしまう。あるいは、目は人の顔を一目で判別できるし、特徴的な歩き方といったかなり複雑な情報も一瞬で読み取る。しかし、解像度が高い画像データの構図に中心性がないと、どこを見ていいのか分からず、まとまったイメージ(印象)を読み取ることが出来ない。視覚は、一挙的であると同時に拡散的であり、統合的であると同時に解体的でもある。これは、視覚がものの「関係」を見るからだろう。顔とは、「顔というイメージ」を構成する諸細部の関係のことであり、関係が見出される時、それは一つの顔であり、しかし細部に注目を移すと「一」としての顔は消え、目や口や肌(多)となる。逆に、関係が見出せなかった諸細部(多)のなかから関係が発見されると、それは「一」となる。
関係という観点からみれば、一と多は別モノではない。一はそのまま多であり、多はそのまま一である。「顔」というイメージを見ている時、目や口や肌はとりあえずは顔という文脈上に置かれ、そのなかで分担された位置(意味)をもつ。しかし個々の実質は顔に代表されて消えてしまうのではなく、目や口や肌のあり様によって、その配置のバランスによって、全体としての顔の印象が変わる。とはいえ、人はいったんそれが「誰の顔」だと分かると(諸細部の関係を見出すと)、それ以上はあまり注意深くは見ない(だが、急に顔色が悪くなるとか、表情がかわると気づくのだから、それは意識に上らないだけで関係は常に探られている)。
●例えば、それが「顔」であることと同じくらいの強さで、同時に「目」であり「口」であり「肌」でもあるようなイメージがあるとすれば、そしてふと気づくと、そこに同時に「イス」のイメージがすこしズレた形で重ね描きされていて、そのイメージもまた、「イス」であることと同じくらいの強さで「木材」であり「背もたれ」であり、「茶色」であるとすれば、それは「イス」であると同時に同じ強さで「目」でもあることになり、そこに「一(イス)多(目)」という新たな関係が生まれる……、みたいなことを、ぼくは自分の作品で実現したいと思っているのかもしれない。
●昨日につづいてフィリップ・デスコラ情報。最近、『ジョルダーノ・ブルーノの哲学』という本を出版された岡本源太さんのブログとサイトから。
http://d.hatena.ne.jp/passing/20120124/p1
http://passing.nobody.jp/thought/descola.html