●昨日の動画について少し考える。


http://www.youtube.com/watch?v=LXO-jKksQkM&feature=player_embedded


●例えば、それぞれの文脈(地)から切り離されたイメージ(図)、1、2、3があり、それらを媒介なしに直接接合した合成的イメージとして図(123)を作るとする。この時、図(123)は、それ自体として固有の(共通の)文脈(地)をもたない。しかし人の頭はほぼ自動的に、1、2、3という三つのイメージを統合する図(123)の背景的文脈(地)をつくりだしてしまう。遠近法は、それを見る人が勝手につくりだす。例えば、メルロ=ポンティは「映画には地平がない」と批判するが、しかし実際には人はかなり無茶なモンタージュでも普通に受け入れてしまう。つまり、図と図を直接組み合わせると、新奇な複数的イメージとセットとなった新奇な文脈が「一つ」出来上がる。
そうではなく、固有の文脈をその内に含みこんだまま切りとられたイメージ、図、1、2、3があるとする。それらが媒介なしに直接的に接合されると、それはたんに図1、2、3が接合されるだけでなく、それに伴って地1、2、3もまた、不連続なまま接合されることになる。つまり、地1から地2へ、地2から地3への地の不連続的移行が起こる。つまり、図が歪むのではなく地が歪む。身体が歪むのではなく、身体がそのなかにある(身体をそのようなものとして存在させている条件であるはずの)時間と空間の方が歪む。時空の不連続性があらわになる(この不連続性は、歪みやショックとしてしか感覚化できず、メタ的には把握できない)。つまりここでは、一つの複合的図に対して、文脈の方が複数化する。
(おそらくこれは、シュルレアリスムモダニズム絵画---マネやセザンヌマティス、それぞれやり方は違うが---の違いにも対応する。シュルレアリスムは図、イメージを複数化し、モダニズム絵画は地、空間、背景、文脈を複数化する。勿論これはとても大ざっぱな言い方です。)
●きっと、複数のレイヤーが重ねられる、という言い方だとまだ単調なのだ。複数の地・文脈が、不可分な形で(互いに互いを巻き込みながら)、短絡的に接合される、と言った方が立体化する気がする。おそらくこの「巻き込み(各レイヤーへと分離出来なくなる)」が起こるということが重要なのだ。非連続的なのに分離できない、という。
●三次元的な人間の身体は時間と空間内にしか存在できないので、その背景となる時間、空間から切り離して図としてだけとりだすことは出来ない。つまりそれは常に地を含んだ図としてある。特にイメージがダンス(複雑な運動)であれば、その絡み合いはより密接なものとなる。動画では、うんと大ざっぱに言って、通常の速度、スロー、コマ落とし、ストップ、逆回し等の異なる時間操作(不連続性)に見える動きが切れ目なく直接的に接合されている。さらに、通常の人の骨格や、身体と重力の関係上では物理的にありえないように見える動きもする。つまり、異なる時間環境、異なる空間環境を背景としているような動きや動きの接合が、切れ目なく連続的になされている。そこで時空が歪む。時空の不連続性が「見える」ようになる。あるいは時空が複数化する。
不動のフレーム、そしてダンサー以外にはほとんど動くものがないこと(背景のガラスに映りこんだ通り過ぎる自動車の一部分をのぞいて)から、そこに操作(編集)の痕跡は感じられない。つまりここでは、フレームの持続性(連続性)こそが、地の不連続性を際立たせている。操作(編集)の痕跡は、視点の移動(図と地の再編成)の痕跡となり、歪みはそこに吸収されてしまう(だからこれは、純粋なダンスというより、フレームと一体となった映像作品とみるべきだろう、勿論、ダンスそのものがすごいのだが)。そこに、「一つのフレーム・限定」のなかに「複数の時空(フレーム・文脈)」が不可分に畳み込まれているという、モダニズム絵画的な空間があらわれる。
(念のための注。ここで言うモダニズムとは、ちょっと前にこの日記でシュルレアリスムとの対比で書いていたモダニズムとはちょっと違う。後者は主に戦後のアメリカ絵画を想定したモダニズムで、今日書いているのはそれ以前、ヨーロッパの19世紀終わりから20世紀はじめ頃までのモダニズム。というか、端的に、マネとセザンヌマティスのこと。だから、アメリカ型のフォーマリズム絵画とシュルレアリスムを対比させて考えるより、セザンヌマティスシュルレアリスムとを対比させて考える方がいいのかもしれない。そうするとデュシャンの特別な位置も見えてくるかもしれない。あ、でもそうするとポロックの特異性が……)
●もっと言えば、これは『境界線上のホライゾン』と『機動艦隊ナデシコ』の違いにもみられる気がする。「ホライゾン」がシュルレアリスム的なイメージの接合であるのに対し、「ナデシコ」がモダニズム的な接合である、と。
●で、おそらくぼくがやりたいのは、モダニズム的な地の複数性(不連続性)をもつイメージの生成を、シュルレアリスム的な(「一つのフレーム」を前提としない)付け足し的な(付け足し可能な)イメージ接合によってつくることなのではないだろうか。とはいえ、セザンヌとかはそもそもそういう感じなんだと思うけど。