●『魂と体、脳』(西川アサキ)再読。今日は第二部。この本は、ざっくり言えば第二部までは「常識(実体的紐帯)」の話だ。常識はなぜこんな形をしているのか。常識にはどのような根拠があるのか。常識はどういう風に自己生成するのか。常識はなぜこんなに強いのか。それが、思弁とシミュレーションによって圧倒的な迫力とともに語られる。それはとてもヘヴィで、絶望的な気持ちにさえさせられる(実際、ぼくはこの本を最初に読んだ時、途中で体調を崩して寝込んでしまった)。そしてこの本は、そのような「常識」に対する強い敵意によって書かれているように思われる。で、この後の第三部は、そのような「強い」常識に対して、どう考えればいいのか、という話にすすんでゆく。常識の必然性を認めつつも、常識とは違う世界像を成立させるにはどうすればいいのか、という話になってくる。常識の組成ががっつりと追求されるのは、どうやってそれに抗すればよいのかを探り出すためなのだ。そして増々ハードになってゆく。
ここで言う「常識」とはざっくり言ってしまえば、多様な視点と一つの実体がある、というような世界観だ。それは、複数の文化と唯一の自然があるという世界観だとも言い換え得る(だからこの本は、多文化主義に対する多自然主義---多数の自然と一つの文化があるのだとする人類学の潮流---とも接続し得るのではないか)。文化相対主義と(唯一の、グローバルな)自然科学が支配する世界と言ってもいい。物理的法則が支配し、わたしはわたし一人しかいなくて、わたしの内面は閉ざされていて、一回だけ生まれて一回だけ死に、死んだらそれでおしまいというような世界観だ。人それぞれ考え方、感じ方は違うけど、その背後にはすべての人に共通の「客観的真実」が横たわっている、というような(この本が「科学」ではなく「形而上学」だと書かれていることには深い意味と「挑戦」が隠されていると思われる)。この本はそのような「常識」に対する全力をかけた抵抗として存在している。そしてそれは、究極的には「死への抵抗」という形になると思われる。
この本では、「常識」の必然性を描き出すのも、「常識」からの離脱の可能性を描き出すのもどちらもモナドジーで、「心身問題」というのは、常識と常識からの離脱の「間」にある(常識の必然性にも、そこからの離脱の可能性にも、どちらにも関わる)クリティカルな問題だとされているのだと思う。