●お礼。アトリエ引っ越しの時にトラックを運転して下さる方がみつかりました。この件についてお気遣いいただいた方々に感謝します。ありがとうございました。
●昨日の補足。「波動関数の収縮」について、『ペンローズの<量子脳>理論』から茂木健一郎の解説。
量子力学の不完全さは、いわゆる観測の過程に現れている。観測問題というと、すぐに観測者の役割がどうのとか、観測者の意識が関与しているのではないかと問題が広がってしまいがちだ。だが、量子力学が不完全なのは、そのような曖昧な哲学的問題にあるのではないのである。問題は、論理的な不整合という、もっとドライで逃げようのない点にあるのである。》
量子力学では、波動関数というのを考える。これは、複素数の値をとる。波動関数は、シュレディンガー方程式に従って時間発展する。この過程を「U」と書こう。一方、波動関数から、いろいろな結果が生ずる確率を計算することができる。そのためには、波動関数の絶対値を計算する必要がある。イメージとしては、いろいろなことが起こる可能性がある状態から、一つの結果に波動関数が「縮んでいく」のである。この過程を「R」と書こう。以下の議論で重要なのは、「U」の過程は過去と未来が対称であるが、「R」の過程は、過去と未来の区別がある。すなわち時間反転について非対称であるということである。》
《この点についてはしばしば誤解されていて、波動関数の時間発展を記述する「U」の部分だけを捉えて、「量子力学は時間反転に対して対称な理論である」と言われることもある。だが、量子力学は、あくまでも、「U」と「R」が一緒になって、はじめて完全な理論なのである。「U」だけを取り出してみても、何の役にも立たないのだ。それどころか。「U」と「R」という区別さえ人為的なもので、本来は一つのプロセスで書かれるものを、不完全に分離したものである可能性さえある。》
●そして、「コペンハーゲン解釈」と「ランダム」という概念への疑義。茂木健一郎による解説から。
《(アインシュタインの「神はサイコロを振らない」という発言を受けて)ここでサイコロを振ると言っているのは、波動関数の収縮過程のことである。現在の量子力学の標準的な解釈によれば、この過程はまったくランダムである。つまり、「神様がサイコロを振っている」のであって、その結果をあらかじめ知ることはできないということになっている。これを、「コペンハーゲン解釈」と言う。》
《そもそも、世の中に、本当に「ランダム」なものはあるのだろうか? 少し落ち着いて考えてみれば、ランダムという「概念」自体を定義することが、ひょっとするとできないらしいということがおぼろげに見えてくる。》
《たしかに、現在の量子力学の体系の下で、ある瞬間の量子的システムの状態が与えられても、観測の結果は確率的にしか予測できないかもしれない。しかし、実際には、世界は次の瞬間にはちゃんと一つの状態に収束するのである。ということは、どんなプロセスを通るにせよ、何らかの形で、世界はつぎの瞬間の状態を一つに決めているのである。そもそも、世界の時間発展が、「ランダム」に決まるというのは、何を言っているのだろうか? 》
●ここまで来て、あらためて、波動関数の(客観的)収縮が、「決定論的」であり、かつ「計算不可能」であるというペンローズの言い方の意味がみえてくる。それは、世界に対して「ランダム」という曖昧な概念を認めないということでもあるのだろう。
●おそらくここで、「ランダム」と「計算不可能性」は、システムの外部を名指すふたつの別のやりかただといえるのではないか。どちらも、事後的にしか決定できないと言っている。ただ、ランダムというのは、あくまで主観(観測)に対して使われる(ランダムという概念は「主観」に対してだけ意味がある)。だから、主観=観測がなければ可能性は収束しない(観測するより前には世界の状態は決定されない)、となる。一方、「決定論的」かつ「計算不可能」であるということは「客観的には既に決定されている」が、「事前に計算によって導き出すことは可能ではない」ということではないか。つまり、世界は(主観=観測によってではなく)世界自身によって《つぎの瞬間の状態を一つに決めている》のだが、世界内情報だけではそれを事前に知ることは世界自身にさえ出来ない(だから誰かが観測するしかない)、となる、のか?
●とはいえ、「決定論的」で「計算不可能」というのは、量子力学の論理的な不整合としてあげられた「時間反転に対して対称(「U」)」であり、かつ「時間反転に対して非対称(「R」)」でもあるということを言い換えただけであるようにもとれる。それは、すべては必然性(因果関係の関連)として既にあり、かつ、未来には過去の状態には還元されないものが含まれる(不確実性があり、創発が生じる)、ということであろう。しかし、不確実性が「誰か(主観)」に対してあるのではなく、世界自身(客観)に対してあるということと、決定論とはどう辻褄が合うのだろうか。それって、世界が決定論的であることを世界自身が知らない(あるいは忘れている)、というようなことになるのか?
●おそらくここからペンローズは、プラトン的世界(完全に決定論的な世界)と物質的世界(時間的に非対称な世界)、それらを結ぶ精神的世界(非計算的な、外への拡張する力)という三つの世界の相互関係(相互作用)を構想するのではないか。
茂木健一郎斎藤環との往復書簡で次のようにも書いている。
《とりわけ、ロジャー・ペンローズ量子力学に対して立てている「フレーム問題」は、潜在的には深刻なものであると考えます。量子力学においては、波動関数を記述する基底ベクトルがとられ、ある状態の波動関数は、それらの基底ベクトルの(複素数を係数とした)線型和として与えられます。そうして、観測をすることによって、系の状態が基底ベクトルで記述される状態のひとつに「縮退」し、観測されると考えるのです。
ペンローズがていした疑問とは、こうです。そもそも、基底ベクトルの取り方は任意のはずだ。三次元空間を記述するのに、(x、y、z)という座標系をとっても、それを回転させた(x'、y'、z')という座標系をとってもどちらでもかまわないように、本来は、ある特定の基底ベクトルのセットが特別な意味を持たなければならない理由はない。
たとえば、有名な「シュレディンガーの猫」の実験にしても、同位元素が崩壊し、毒薬の入ったガラス瓶が割れて、箱のなかの猫が「死んでいる」状態と、崩壊がまだ起こらず、猫が「生きている」状態それぞれが、波動関数が収縮する先の「基底ベクトル」にならなくてはならない理由は、量子力学の数学的形式自体からは与えられない。猫が「生きている」状態と、「死んでいる」状態が複素数で結びつけられた、混合状態が複数あり、それらが基底ベクトルのセットになったとしても、等価なはずだ。それなのに、波動関数の収縮の先は、猫が「生きている」、あるいは「死んでいる」状態になる理由はなぜなのか? その理由は、「コペンハーゲン解釈」のような標準的な量子力学の体系の「外」から与えられなければならないはずです。
それでは、その「外」とはいったいなんなのか? ここに、量子力学が現状で抱えているもっとも深刻な脆弱性があるように私は考えます。そして、それと同型な脆弱性が、(数学的なものを含めて)およそ言語で世界を記述する立場に、普遍的に付随しているように思います。》
http://sofusha.moe-nifty.com/series_02/2010/04/4-0214.html#more
(この書簡で茂木健一郎は《理論的に重要な古典的決定論における「カオス」の問題については触れることができませんでした》と書いているけど、ペンローズによる量子力学への態度がいわゆる「複雑系」的な眼差しから見るとどう映るのかはとても興味がある。)
茂木健一郎にとってこの「外」とは、つまりシンタックス(文法・形式主義)に対するセマンティックス(意味論)の領域ということになるのだろう(『ペンローズの<量子脳>理論』の解説から考えれば)。しかし、ここで「意味」を持ち出してしまうと、「意味」とは(世界自身=客観にではなく)「主観(観測者)」にとってはじめて「意味をもつ」ものだから、茂木健一郎自身が避けていた「曖昧な哲学的問題」に回帰してしまう。ここで、ペンローズが(観測とは切り離された)波動関数の「客観的」収縮を言ったように、茂木は(主観とは切り離された)クオリアの客観性を形式の「外」として言いたいのかもしれない。