●ここ数日で、色鉛筆で描いたドローイング。












●写真で見ると色があまりよく分からないかもしれない。でも、実物を見ても「色」自体がそれほど際立つわけではない(どれも単色で色の差異はないわけだし)。色それ自身よりも、線が色を持つことで、それぞれの色によって線が目に当たる感触が(線の表情が)違ってくること、そして、それによって地の白が目に当たる感触もまた違ってくることが重要だと思う。それが描く行為(手の運動、形の生成、線の軌跡の選択、線と線の関係、線と地の関係)にも影響してくる。そして、色鉛筆は色によって硬さが違うから、芯と紙との間の摩擦の感覚もまた、描くことの手の動きに影響する。その違いの感覚が手の運動に与える影響を、自分自身で計測し、探りつつ、楽しんでいる感じ。
●線は動きであり形である。形でありながら決して固定せず動きとしてほどけ、しかし、動きとして逃れ去るだけでなく形としてある感覚的印象を生む。退屈でない形は完結せずに別の形へと動いてゆくし、退屈でない動きは動くだけでなく予感としての形(感覚)をエコーとして残してゆく。線が他の線との関係においてあり、動きも形も、それぞれ他の動き、他の形との関係(配置)においてある以上、一つのフレームをかたちづくる「全体」は常に問題となる(配置が問題となる以上、配置を配置する地としての全体が必要となる)。しかしここで全体とはきわめて緩い全体であり、視線がその都度とらえる範囲がその都度の暫定的な全体となり、またその暫定的全体は、描かれた線や形の「動き」に促されて常にズレ動いてゆく(暫定的全体をどのような任意の範囲でとったとしても、その中心が常に歪んでいるように動きが配置されている)。
●ドローイングは、そのような動きを動くためのトレーニングであり、トレーニングとはつまり実践(実戦)である。