●引っ越した先は生まれ育った土地だけど、住むのは25年ぶりくらいなので、馴染み感はあるのにどこになにがあるのかがさっぱり分からない。既視感だらけの迷路を歩いているような感じがすることがある。そんなときに、歩いていていきなり「昔のままで残っているもの」にぶつかると動揺する。あらかじめそこにあることが分かっていれば、こちらとしても「懐かしいモード」で防衛することもできるけど、いきなり、小学生くらいだった頃から変わっていないものに行き当たってしまうと、まったく唐突に平気で時間がガクンと35年くらい逆行するので、いま、ここ、が分からなくなってくらくらする。
●よりによってこんな風と雨のなかで鍵がなかった。今まで鍵をなくしたり置き忘れたりしたことは一度もなかったのに。しかも、キーホルダーについている複数の鍵のうちの一つだけが消えていた。こんなことがあるのか。
●「見張りの男」(磯崎憲一郎)を読みながら、なんとなくピカソのいくつかの絵を連想していた。フレームのなかに位相をわずかにずらしながらいろいろなものがみっしり詰め込まれていること。とても複雑な時空の操作をしているのに、通俗的なわかりやすさを手放さないこと。さらに複雑な時空の操作から(操作そのものに汲々となっているような)神経質な感じをまったく感じさせず、タッチが常に鷹揚であること。おそらく、そのような共通点がピカソを連想させるのだと思う。フィギュールとフィギュールとの関係は複雑でも、一つ一つのフィギュールはシンプルなものとして立ち上がる(それぞれのフィギュールそのものは決して単純ではなく多様な力のせめぎ合いがあるのだが、「あらわれ」としてはシンプルにみえる)、というところも共通している。
具体的には、べラスケスの「ラス・メニーナス」を元にピカソが描いた何枚かの連作を思い浮かべていた。ぼくは中学生くらいの時、これらの絵を画集で観て、二次元とも三次元とも異なる「絵画の空間」というのがあるのだということをはじめて感じた(三次元空間の表象と平面性の追求との相克、みたいな問題設定は偽の問題だ)。つまり、難しいことをやっているけど、そのわりにはわかりやすい絵なのだと思う。






●あと、たまたま今読んでいる『解明 M・セールの世界』に書かれたセールの言葉とも響いている。
《時間はいつも一本の線にそって流れているのでも(…)、一つの面にそって流れているのでもなく、ものすごく複雑な多様性にしたがっているのです。まるで停止点や、裂け目や深みを示すかと思うと、すさまじい加速ダクトがあり、切れ目があり、欠けたところがあり、といった具合で、全体がばらばらに散らばっている。(…)だから歴史の発展はまさしく混沌理論が描いてみせるものに似ているのです。》
《フランス語では、賢明にも、天気を表す英語のweatherと、過ぎ去る時間を表すtimeとを、一つの単語[temps]で表します。根底のところでは、これは同じものなのです。気象学の時間(=天気)は、予見できるところもあり、できないところもありますが、おそらく、いつの日にか、揺動や不思議な吸引力といったような、きわめて複雑な概念によって説明されることになるでしょう……。そのあとではきっと、歴史の時間が気象学の時間(=天気)よりずっと複雑であることが理解されることになると思いますよ。》
《それは時間ではないのです。一つの線にすぎません。いや、一つの線でさえない。一位を争う競争、学校や、オリンピックや、あるいはノーベル賞で、一位を争う競争の軌跡です。それは時間なんてものではなくて、たんなる競技ですよ。つまり、ここでも戦争です。時間性を、持続を、なぜ争いに置き換えてしまうのですか。最初に到着したもの、戦いの勝者が、賞として、彼らに都合のいいように歴史を再発明する権利を手にれる。これももっともらしい理屈ですが、これは表に見えるものの論理でしかありませかん。
より深いところでは次のようになる。つまり、時間だけが二つの矛盾するものを共存させることができる。たとえば、わたしは若く、かつ歳をとっている。ところで、わたしの人生だけ、わたしの人生の時間、あるいはその持続だけが、これら二つの命題を互いの間で首尾一貫したものにすることができるのです。へーゲルの過ちはこの論理的に自明なことを逆転させてしまい、矛盾が時間を生み出すのだと主張したことです。ところがその逆だけが真実であり、時間が矛盾を可能にしているのです。》