●昨日テレビで『境界線上のホライゾン』の第二シーズンの一回目をやっているのにたまたま出くわして、少し観ていたのだが、それでふと、本多正純というキャラの声としゃべり方にどこか聞き覚えがある気がして、画面から少し気を外して脳内検索をはじめ、しばらくしてそれが『化物語』の神原駿河に行き着いた時の、意外な、別のパースペクティブが開けたような驚き。
●アニメのキャラがキャラとして成立するのに、ビジュアルと声(しゃべり)との結びつきは不可欠だろう。キャラはビジュアルだけでは十全にはキャラ足り得ず、声(しゃべり)によって息を吹き込まれる。しかし、本多正純神原駿河という、作品(地)としても作品内の役割(図)としても大きく異なる(形象として大きく異なる)キャラ同士が、声としゃべりという次元では通底していることで、何というか、世界の潜在的な別の層を垣間見たような感じ。意味という次元ではまったく関係のない二つの形象(キャラ)が、声(しゃべり)という物質性において結びつく。
●だから、同じ声(しゃべり)を違う意味(イメージ)として聴いていた、ということを事後的に知り、それを知ったということはつまり、違う意味(イメージ)の間に、同じ声(しゃべり)を聴き取った、ということなのだ。そこに驚きが生まれた、ということだろう。
●こんなことを書いていて、本多正純神原駿河が実は違う声優だったりしたら恥ずかしいと思って調べたら、ちゃんと同じ声優だった。とはいえ「同じ声」が「同じ名前」によって保証されるっていうのは、つまんないことだけど。
●たとえば、『境界線上の…』のホライゾンと『涼宮ハルヒ…』の長門有希が「同じ声」ということを「声優の名前の一致」によって知っても、それは「へーっ」っていうことでしかない。それはIDの照合のようなことでしかない。あくまで声(しゃべり)へのひっかかりが最初にあって、それが異質な複数のイメージへ分岐してゆくのが面白い(たぶん、ホライゾンと長門有希はキャラが近いから、違う形象と同じ声、ということにならないから、ひっかかりが生じず流して聞いてしまうのだろう)。
●これは、ぼくがアニメのディープなマニアとは言えないから起こることだろう。もしアニメや声優に精通していれば、キャラの声を聴くごとに、この声は誰々で、あの作品のあのキャラやこの作品のこのキャラをやっていると即座に分かるだろう。アニメのキャラ配置と声優のキャラ配置という二重化された世界が、声(しゃべり)によって媒介されているのかもしれない。ぼくに起こった現象は、ようやく、個々の声優の特異性を聴き分ける耳が出来始めたということを示すのかもしれない。