●そういえば昨日、今年はじめてセミの声を聴いた。最初に聴こえてきたのは何の音にも似ていない感覚が歪むような異様な音で、何の音かわからずうろたえたのだが、次第に鳴くのがうまくなって、セミの声へと着地した。
●二十枚くらいの原稿のためにここ一週間以上ずっとうんうんうなっていたけどようやく終わりが見えてきた。でもまだ、一日二日はかかりそう。読むのも、書くのも、そして描くのも、どんどん時間がたくさんかかるようになってきている。
●ちょっと昨日のつづき。吉本隆明において、「最後の親鸞」の「不可避の一本道」と、「マチウ書試論」の「関係の絶対性」という概念が裏返しであるとはどういうことか。この二つの概念はとても似ていて、一見ほぼ同じことを言っているようにも見える。しかし関係の絶対性は、加担と倫理にかかわる概念であり、逆に、不可避の一本道は加担や倫理というものを消失させた後に現れるものだという違いがあると思う。
「マチウ書試論」は「マチウ書(マタイ伝)」から次の部分を引用する。
≪偽善な律法学者とパリサイ人にわざわいあれ。なんとなれば諸君は、予言者の墓を建て、正義の人の墓碑を飾りそして言う。もし、われわれが父祖のときに生きていたら、予言者の血を流すために、かれらに加担しなかったろうと。諸君は無意識のうちに、自分が予言者を殺したものの子孫であることを立証している≫。
つまり、お前たちは自分が父祖のときに生きていれば預言者の迫害などしなかったといいながら、予言者であるわれわれを現に迫害しているではないか、とマチウ書の作者は言っている。それに対しパリサイ派は、お前たちは予言者ではなくただの破壊者にすぎないと応えるだろう。吉本隆明はここで、パリサイ派の言うことは、≪人間と人間との関係の絶対性≫を考慮にいれない限り正しいと言うほかない、と書く。しかし同時に、そのような関係を意識しない思想など幻に過ぎない、とも書く。
じっさい、パリサイ派から見れば原始キリスト教者たちは破壊者でしかない。しかし、(「マチウ書」に書かれている)現時点でパリサイ派から予言者だとされている者たちもまた、≪父祖のとき≫には当時の秩序に対しては破壊者でしかなかったのではないかという視点が忘れられている。だがとはいっても、現時点では、原始キリスト教者たちが予言者であることを客観的に保証するものも何もない。≪それへの加担というものを、倫理に結びつけ得るのは、ただ関係の絶対性という視点を導入する≫ことでのみ可能なのだ、と書かれるのは、そのような意味においてだった。どちらに加担するにせよ、その「行動の時点」では客観的な正当性などなく、それは未来に対して保留され、その時点で自分がどちらの陣営にいるかはただ偶発的な「関係」に依るものでしかない。倫理はその関係のなかからみられるしかない。だから「関係の絶対性」とは、加担に対する倫理の問題としてある。「関係の絶対性」という、絶対的な善の不可能(不可知)性の前で、投企としてどうふるまい、それに対しどう責任をとるのかという問題が倫理となる。
「最後の親鸞」では、仏というある種の絶対的空虚が未来への保留の一切を引き受けてくれることによって、賭けと闘争という未来への投企(能動)は消え、そのかわりに、一人一人にとって固有の「浄土への経路」としての「不可避の一本道」があらわれる。すべての経路に必然性があるのだから、善悪も勝ち負けもなく、投企がないから倫理も消える。非僧非俗である親鸞のように、善に非ず悪に非ず、生に非ず死に非ず、そして、主観(知)に非ず客観(自然)に非ず、というその中間の狭いところに、浄土への経路(過程)としての不可避の一本道という生があらわれる。これはまるでカフカの「掟の門」みたいなイメージでもある。いや、「掟の巣穴」(合成)というべきか。
ここで「自然」という概念がとても気になる。「最後の親鸞」では、「おもんばからい」として知の一切が避けられるが、同時に、自然に生き自然に死ぬという意味での「自然」も微妙に避けられる。知に非ず、自然に非ずというぎりぎりの隙間に仏からの導きとしての一本道があらわれる感じ。しかし、善悪はたんに人間的な問題だが、知と愚という対立の「愚」は「自然」というニュアンスに近い。だとすれば、「非知」と「愚」とはやはり微妙に異なる概念のように思われる。