●『カイエ・ソバージュ4 神の発明』(中沢新一)はとても面白かった。ここまできてようやく、カイエ・ソバージュ全体で何が構想されているのかということが、ぼくにも少しみえてきたように思う。
一巻目で神話、二巻目で国家、三巻目で経済が語られ、四巻目のこの本では宗教について語られる。しかしどれも基本として、現生人類が獲得した流動的思考(隠喩と換喩をもちいて物事を横断的に関係づける思考)が、それぞれの領域でどのような形であらわれているのかという点から説明される。ざっくり言えば、流動的な知性によって可能になった「思考内容」と、流動的な知性によって不可避的に発生する、知性による知性自身へ折り込みである「内向きの作用」とが、斜めにずれつつ共存していることで様々な事柄が発生するという考えが基本にあるように思う。
たとえば、「神話」というのは、流動的な知性によって可能になった「世界に対する認識の形」であり、同時に実践的な世界への具体的働きかけの形だと言える。そのような意味で、神話は世界観であり哲学であり科学であり、人々の生や社会のありようを律するものでもある。それは実践としての生のあり様の全般に関わる。
対して「超越性(その作用によって生まれる宗教)」はそのような社会や実践の範疇を越え出ようとする傾向をもつ。それは、流動的な知性の流動性によって、知性が自分自身の働きの内へと折り込まれてゆくような動きから生まれる。それは知性の働きの原因に知性を置くという形になり、つまり知性の知性に対する自己言及となり、それ自身として単一の全体を志向しつつも(「文化/自然」という対称的世界を超越して、思考自身が単一の世界-秩序であろうとしつつも)、そうである限り常に「核心(中心)」は空となりそこへに至ることはない(空の位置に単一の神が位置すると一神教となる)。
いわば、神話が常に自らをオブジェクトレベルへと限定し、それが破綻する地点(境界)をシャーマンや戦士に任せてそれ以上秩序(イメージ)の内部に進入させないように抑制するのに対して、超越性は文字通りイメージの秩序を超越して抽象化し、メタレベルへと飛翔して「文化/自然」を一元化しようとする。神話においては「力」は常に自然の側(思考の外)にあるが、超越においてはその「力」が思考自身のなかに折り込まれ、力の源泉が思考自身にあるかのように現れる(これが、権力をもたない首長と権力の中心である王の違いとパラレルとなる)。この二つの働きの同居は、現生人類が流動的な知性を獲得してしまったからには不可避であるとされる。
ただここで、神話がオブジェクトレベルで超越(宗教)がメタレベルとして階層化されるのではない。超越性はあくまで「メタへと飛翔しようとする力」であり、そもそもそれは自己言及であるからには、(トーラス構造のように)超越(中心)へ至ることなく自分自身の元へと戻ってくるしかない(世界のメタレベルは成立しない)。つまりここでは、「オブジェクトレベル(思考内容)」と、「メタレベルへと飛翔しようとする力(思考作用)」とが、半分ズレながら共存する(それらは常に上下へと分離しようとし、しかし常に混同される)。その共存により、半オブジェクトで半メタな場が成立する。これが人間の心のトポロジーであって、このような構造が様々な現象や出来事を生み出している、と。メタレベルには決して到達することができないが、同時に、オブジェクトレベルだけで完結することもできないような時空に、人間は置かれている、と。
●ここで流動性はスピリットという名を与えられている。スピリットは、前巻で純粋贈与と呼ばれたようなものであると同時に、脳のニューロンの発火と重ね合わせられるような即物的なものでもあり、《心的現象の物質的な素過程》としてとらえられる。それは物質的な過程と心との接点であり両者を結びつけるものである。だからそれは、心の原因でありながら心の内部にはなく、心とは別の動きであって、常に心をすり抜けて行く。そしてこのスピリットが、ラカンのボロメオの輪における現実界の位置に置かれる。
そこから生まれ、あくまで具象性をもつオブジェクトレベルへとどまろうとする神話が「想像界」の位置へ、同じところから生まれつつも抽象化され超越へと向かおうとする力をもつもの(宗教と言ってもいいのではないかと思う)が「象徴界」の位置に置かれる。
●スピリットが《心的現象の物質的な素過程》としての「現実界」であり、それによって「思考内容(神話)-想像界」と「思考作用(超越)-象徴界」が生じるのだとすると、物質的過程としてのスピリットは神話と超越の条件となり、「スピリット/神話・超越」という階層構造となる。しかし、スピリットとは物質的な過程そのものではなく、物質的過程と心的現象とを結びつけ、媒介するものであるから、純粋に物質的過程(条件)とは言えず、半分は心的現象へと折り込まれている。だとすれば、「現実界としてのスピリット」と、「想像界としての神話、象徴界としての超越」の関係は、「想像界としての神話」と「象徴界としての超越」との関係と同様の「半分ズレた(半分しかズレていない)関係」であるのではないか。ならばボロメオの環の関係は《【スピリット】半分ズレる【「神話」半分ズレる「超越」】》という複雑なことになるのではないか。そして、これらの関係がボロメオの環として平面的に併置されるということは、この三つの層のどれもが直接的に相互関係をもつということでもあるので、さらに複雑だ。
中沢新一は、一見分かりやすい二項対立を多用するけど、その二項の関係はそんなに単純ではないというところをみないと、うまく理解できないように思う。
●流動的な知性によって、神話と超越(宗教)という二つの半分ズレた二種類の知が不可避的に分離・共存するのと同様、超越内においても、来訪神と高神という二種類が分離し共存する。神話と超越との関係が「超越」の方へと斜めにズレると、来訪神と高神との関係になる、という感じだろう(来訪神は神話-対称性寄りの超越といえる)。ここで言われているのは、神話が宗教へと発展したというわけではないのと同じように、来訪神(多神教)が高神(一神教)へと発展したわけではないということだろう。それはもともと混在していたのだし、(人間の脳の構造上)混在しているしかないのだ、と。
●だが、ボロメオの環は、もっと限定して、超越に関するボロメオの環を考えることもできる。現実界-スピリット、想像界-多神教宇宙、象徴界-一神教世界、という風に。つまりボロメオの環自体も斜めにズレてゆく。それはボロメオの輪というものが何か固定した「真実」を呈示するものではなく、関係や動きを示すためのモデルでるということあろう。そして、ここで何かが決定的に変化しているのがみてとれる。
ここでぱ、多神教=来訪神ではなく、多神教宇宙=(高神+来訪神+残余)であり、一神教=高神ではなく、一神教=(非対称性-神による「低次対称性+α」-カミの抑圧)であるはずで、その組成は簡単な二項対立にはならないのではないか。高神が確かに神(ゴッド)の萌芽であるとしても、それは多神教という地のなかの「図」であって、一神教という地のなかでの「図」である神(ゴッド)とはそのままでは移行しない。ここにある決定的な変化とは、図の変化ではなく地の変化だと言える(なぜ、このような「地」の変化が起こったかについては深くは書かれていないように思うけど)。しかし、それらがボロメオの環として描かれると仮定するならば、その異なる「地」がそれでも同時に共存し、共働しているということも示しているはずだ。
●ここで言われているとても重要なことは、一神教の構造(地)は多神教的な来訪神たちを破壊してその後に成立したのではなく、たんにそれを抑圧することで成立しているのだ、という点だ(なぜなら多神教的な構造を破壊するには我々の脳の構造そのものが変化しなければならないが、脳の構造はかわっていないからだ、と)。つまり、地は変化していると同時に変化していない、ということになる。あるいは、多神教的(対称的)な「地」は下にもぐっただけで消えてはいない、と。そして抑圧によって意識下に追いやられた対称的スピリットたちは、密かな密輸ルートを通して顕在化され、逆に世界じゅうの至るころに拡散し、繁殖している(抑圧されたものの回帰としてのイメージの増殖、そう考えるとモダンとポストモダンは実は同じ出来事の裏表であり不可分である、と言えるのではないか)。だがその間違った(したにもぐった、飼い慣らされ、搾取の対象となった)繁殖そのものによって対称的スピリットは変質し、死に絶えそうになってもいる、と。
●このような状況になってしまったのは(半分は)、脳の構造上の必然でもあるのだが、同時に、そこからの脱却への希望があるとしたら、それもまた、脳の構造に根拠があるのだ、という結論にとりあえずなっている。
●ならば、多神教一神教という異なる「地」が共存、共働しているということを、「隠喩と換喩とが共存、共働しているように」と言ってしまっても良いのか、ダメなのか……。
●このような思考は、紋切り型の(ポストモダン的)多神教礼賛とも違うし(アナーキズムやよくある日本的な「幼児性礼賛」みたいなものとはまるで違う)、その反動のような、強い主体や責任や倫理を復活させようとする思考とも違っていると思う。