●一昨日からのつづき。西川アサキ「形から逃げ出す生命、ガタリの夢、自身の死を悼むシステム」(「現代思想」8月号)について。
●このテキストはまず、『魂と体、脳』での西川さんの「心身問題」についての「中枢が生成するモデル」が、ルーマンを媒介することによって社会学的なモデルへも拡張可能であることが示される。しかしここで主な関心は社会学への応用ではないだろう。ルーマンの社会システム論はもともと神経細胞のシステムを扱ったオートポイエーシス論がモデルとなっている。それにより、細胞レベル、精神(心身論)レベル、社会レベルという異なるレベルが、システム論的に接続される(あるいは、意図的に混同される)。その「意図的混同」によってアナロジー的にみえてくるものこそが探られる。そしてその上で、それは再び心身論のレベルへ、もっと言えば個体に訪れる「死」をどう考えるのかというレベルへと還ってゆく。ここが最も重要なところだと思われる。
●現代のシステム論では、「中枢」や「メタレベル」なしでも(むしろ「なし」の方が)上手くやっていけるというのは常識だと言える。しかしそれだけでは、わたしの身体は何故わたしという意識(精神)をもち、多くの組織はなぜ中枢をもつのかという問題に届かない。そしてさらに、それだけでは、「わたし」にとって「わたしの死」がなおも大きな問題でありつづけるということにもまったく届かない。おそらくここに西川さんのモチーフがある。
《いわゆる複雑系シミュレーションの多くは、多くの判断主体(エージェント)からなる群れのプログラムを組み、それらがインタラクションの果てに「群れに設計者や指導者がいないにもかかわらず」、全体として何らかの機能を果たす(一般に「自己組織化」や「創発」という)状況をみせる。しかし、筆者は、この「設計者」のようなもの(筆者は「中枢」と呼んだ)が自己組織化するシミュレーションをしたかった。》
●おそらくここには、個の問題はシステムの問題であり、システムの問題は個の問題であるという意識がある。ある設定を与えればそこから自然に「中枢」が現れるということは、中枢はシステムの中から生まれる(システムに依存する)ということだし、しかし、その中枢内の自己対話がシステム全体に影響するということは、中枢の振る舞いがシステムに介入する(中枢はシステムに対し自律的である)ということでもある。完全に自律しているわけではないが、完全に従属しているのでもない。この完全に従属しているわけではない何かが、退行という《意識的カウンター》の根拠となるのかもしれない。
《放っておくとシステムは分化し、構造や規則を次々に排出し、その無矛盾性を維持するために硬直する。もし傾向が不可避なら、常に未分化な方向へ戻る意思を、意図的にカウンターであて続けてやらないと、APS(オートポイエーシスシステム)と構造の比率を中間に保ち続けることは出来ない。》
●これは言い換えれば、図は地のなかから生まれ、地のあり様に規定されるのだが、しかしそれは、地がアプリオリにあるのではなく(時間・空間というアプリオリな地のなかに図としての物質があるのではないことはもはや常識であろう)、図と図との関係こそが地を形作ってもいるのだ、ということでもある。
セザンヌのタッチは、セザンヌの絵画を成り立たせているセザンヌ・システムによって意味を持つ(セザンヌのタッチがマティスの絵のなかに置かれても意味をもたない)のだが、しかし、セザンヌのタッチはセザンヌ・システムに「従って」おかれるのではなく、セザンヌ・システムを「つくりだす(というよりつくり直す)」ためにおかれる。画家の手は、たんに技術とその洗練へと向かうだけではなく(分化-順行だけがあるのではなく)、画家の中枢は同時に逆への流れ(退行)を作り出そうとすることでシステムに乱れを起こし、結果として(つまり、意識的にデザインして、ではなく)それを書き換える。セザンヌのひとつひとつのタッチは、システムに従っているのと同時に逆らっており(たんに従っているのでも、たんに逆らっているのでもない)、それによって「別の地」の出現を常に予感し期待して(つまり、夢見て)いる。
(芸術においては、「APS・SEHS比」を一定に保つということは、洗練や完成に向かうのではなく、必然的に深化に向かうこととなるだろう)
《恐らくこれからの時代の「倫理」は、一気に起きる「革命」というより、こうしたテクノロジーの運用や仕掛け方として、毎回の決断ごとに全体を巻き込むような形で具体的に問われると思う。本稿で提示した「分化」と「退化」比のような概念は、そうした決断の選択基準の一つとはなりうるが、なにも指令はしないし、むしろすべきではない。》
《(…)ガタリの夢には、そのような変化が社会全体に連接していき、マクロな社会構造や人間の認知構造(主体とその死という常識)を相転移させる(=革命)かもしれない、という野望があったようにみえるからだ。》
ここでは、あるモデル(理論)の提示が、あくまで個々の行為のための《判断基準の一つ》としてあり、指標として役立てられるべきもので、それ自体は《なにも指令しない》し《するべきでない》と言われている。それは例えば、ある理論的モデルは、セザンヌのひとつひとつのタッチ(《毎回の決断ごとに全体を巻き込む》ような行為)がおかれる指標の一つのようなものであり、あらかじめ定まった「正しさ」(〜であるべき)の方を向いているのではない、ということだろう。地の変化はあらかじめ正しさによってデザインされるものではない。つまりここでは、「正しさ」(「正しさ」を根拠として人を断じること)ということが否定されているという風に、ぼくは読んだ
●勿論、それはそんなに簡単なことではない。
《放っておくと規則は増えていく。リスクがあり、それへの事前準備が可能なように見えるとき、とりあえずそれは禁止で、というような意思決定が行われ、蓄積していく。その結果は、システムの果てしない老化だろう。
しかし、組織のたんなるメンバーが流れに抗するのは難しい。もし「何か」が起きた場合、禁止に反対した人間は責任を問われる。だから、それを回避するための各エージェントの振る舞いとしては、とりあえず保険をかけて禁止、となるだろう。だがこの時、保険をかけることの組織全体としてのコストが無視されてしまう。共有地の悲劇にも似た、ミクロ的最適化がマクロの組織構造を老化させる構造がある。これを防ぐ方法も知られていない。》
●このテキストは、心身問題のレベルから、社会的レベル、細胞的レベルなどへとスケールをどんどん移動させながら、「《毎回の決断ごとに全体を巻き込む》ような行為」としての「退行(初期化)」の技法が探られてゆく。具体的な細部についてはエスキース的なものに留まっているとしても、そこに多くの刺激的な示唆がある。そしてそれは「わたし」と「わたしの死」の問題に収斂される。それは、「わたし」と「未来のわたし」との関係の問題でもあろう。
●老化した社会のなかにいる「わたし」が、あるいは、老化した社会のようなシステムとなった「わたしの精神」が(この二つは地と図の関係にあって不可分だろう)、「未来のわたし」に対してとる関係は、次の二つのようなものへと二極化しがちだ。一つは、キャリアアップのために、未来のわたしに関するスケジュール表をガチガチに固めているような「わたし」で、もう一つは、「未来のわたし」との関係が切断されてしまっていて、自暴自棄や無関心としてしかあり得ない「わたし」。このどちらの「わたし」も、やがてやってくる「わたしの死」を充分に受け止めることはできないように思われる。
●ここで、精神に対する「山中カクテル」のような技法が想定される。もし、精神に対して有効に作用する「山中カクテル」が可能であると仮定すると、同じ人間が何度も「初期化」されることになる。それは、西川さんのモデルに置き換えれば、「中枢」が何度も入れ替わることと同じだ。それはどういうことだろうか。
《もし、中枢の交替が起きるなら、それは次のようなプロセスだろう。つまり、ある中枢が、システム全体の地図を失い、単なる一要素に戻る。そして、別の要素が、再びシステムの地図を再構築して中枢になる。このとき重要なのは、最初の中枢と次の中枢は、記憶=自分の属するシステムの地図という点では区別がつかないことだ。それらを区別するのは、それぞれの元々持っていた特異性、癖(=単なる一要素だった時の特性)しかない。》
初期化とか中枢の交替というのは「地の変質」であり一つの「死」でもあり、なにかとてつもないことのようにも思えるが、「初期化されたわたし」において意識化されるのはせいぜい《癖》の変化にすぎない。いや、この、《癖》の変化というものが、実際とてつもないことが起きた「しるし」であるのだが。次々に交代してゆく「癖=自分自身たち」からなる持続=共同体としての「わたし」。このように記述されるような「初期化」であれば、人は普通に、一生のうちに何度かは経験するもののようにも感じられる。
ここで、西川モデルの「中枢」とルーマンの「全体社会」の違いが浮き彫りになる。中枢が、もともと他のものと何らかわりのない一要素であったからこそ、別の中枢との交替が可能となり、そこに《癖》の変化という「しるし」が生まれる(対して、ルーマン的「全体社会」は様々なものの隙間に融通無碍に入り込むのかもしれない)。このテキストのタイトルは、「澱」から「癖」へ、でもよかったのではないか。
●《我々は他人の死を悼むことは出来る。しかし、それを「自分の死」として体験するのは難しい。しかし、その「自分」が次々交替することを体験し続けた人は、「自分の死」を「他人の死」のように感じることができるのかもしれない。そして、他人の死を悼むように、未来にいる自分の死を悼む。この態度は「自分の」死に関する恐怖への処方箋となりえないだろうか?》
《未来の自分と「悼み」という関係で繋がっている交替する自我群を考えられないだろうか?》
《その時、他者としての未来にいる自己へのモラルとして、「悼み」程度の配慮は残らないだろうか?》
《(…)「交代していく自己に対する、悼みの連なりを接続の原理とするシステム」という奇妙なモデルがあっても良い。》