尾道で撮った写真。その二。













●なびす画廊の松浦寿夫展は、最近のこの画家の仕事のなかでは断トツに良いんじゃないかと思った。正直、最近の仕事はちょっと物足りない感じがしていた(仙川の展示とか)のだけど、今回のは突き抜けていると思った。いや、今までぼくが観た松浦寿夫のなかで一番良いかもしれない(すべての発表を観ているわけではないが、二十年以上は観続けている)。
具体的にどうやっているのか分からないのだけど、たんなるステイニングとも違うし、絵の具を後から布でふき取っているのとも違うような、一度厚めにのせた絵の具を水を流して洗い流しているような、今までの作品では見られなかった要素-表情(ステイニング的な薄塗りの色の広がりのなかに、厚めの絵の具が剥離したような感じで斑に残っている)が付け加えられていることで、たんに画面の複雑度が増しているというだけでなく、画面構築の原理まで否応なく動いている(変化している)感じがした。今までの、構築的なタッチの累積による画面をちゃぶ台返ししてしまうような不安定さが、かなり大胆に受け入れられているのではないか。
画廊の入り口から見て向かって左の壁にあるフランケンサーラー風の作品(色彩の選択的にも、ボキャブラリー的にも、松浦的というよりあからさまにフランケンサーラー的だと思った)において、まさに今までの松浦作品とは「別の原理」が受け入れられており、それが、正面の壁や向かって右の壁にある作品になると、「別の原理」と「今までの原理」のせめぎ合いが生じていて、その結果として、フランケンサーラー的空間性とも松浦的空間性とも違う、のっぴきならない新たな何かが生み出されているように思われた。引き算によって画面が過剰になっている感じ。
構築的なタッチ(あるいはプラン)とは違う、不定形ともいえる捉え難い薄塗りの絵の具のもつ不安定さの導入は、少し前から試みられてはいたように思う。しかし、例えば少し前に仙川で展示された作品では、薄塗りは、絵の具の表情のバリエーションの違いではあっても、画面の構築性そのものを動かすまでには至ってなかったように思う(むしろ、層構造を単純化していたとさえ言えると思った、画家がどういう順番で描いたのかがだいたい分かってしまう感じ)。しかし、今回展示された作品では、別の原理を「受け入れること」に成功しており、それによって今までとは「別の習慣」と言えるようなものが画面として出来しているように思われた。
「別の」というのは、まったく別のことをはじめたというのとは勿論ちがう。今までも自転車には乗っていたのだが、今までとは違う感覚で自転車に乗るようになった、そしてその結果として、自転車にのったまま綱渡りも出来るようになった、というようなことなのではないかと思う。だから、依然として松浦寿夫的であり、かつ、以前の松浦寿夫とは違う、というような感じ。