●昨日の補足というか、蛇足。悪を(悪人を)やっつければ、よい状態の社会が訪れるという考えは間違っていると思う。重要なのは、どうやったらいろいろなことがうまく機能するのか、そのやり方を考え出すことで、「悪を倒す」ことではないのではないか。悪を倒すことは、溜飲を下げることくらいにしか、きっと貢献しない。
●目の前に緊急的に立ちはだかる社会的、政治的な問題(状況)に対する判断は、総合的な判断であるがゆえに、常に高い確率で間違いである可能性を含むものだということを、判断する主体は意識していなければならないのではないかと思う。たとえば原発に関して、その物理的原理について、実際の技術ついて、運用の実態について、放射性廃棄物の処理について、天変地異やテロなどに対する耐性について、推進の経緯社会的背景について、利権構造について、経済的な影響について、それらすべてを総合して判断することが出来るだけの、情報と、情報処理能力をもっている人は、(それぞれの部門の専門家はいるとしても)世界中探してもほんの一握りしかいないのではないか。しかしそれでも、我々は原発に関して何かしらの判断をし、態度を決めないわけにはいかないので、自分の持ちうる情報と、情報処理能力と、そして思想信条のなかで、それらを駆使して、一人一人がなんとかして暫定的な判断を下し、態度を示そうとする。あらゆることをすべて根本から勉強したうえで判断するのでは遅い(あるいは無理)という時、にわか勉強の情報ソースの信用度を根本まで掘り下げてチェックする余裕など、ほとんどの人はもたない(個々の部門の専門家ですら、そうであるはずだ)。ある側面がよく見えている人でも、死角になった別の重要な側面を見落としているかもしれない(一面がクリアに見えているからこそかえって死角の存在に気付きにくいということもある)。そんななかで、何かしらの状況判断を強いられ、暫定的に判断を下す。高い確率で間違いかもしれないのだが、状況がそうそういつまでも保留を許してくれない場合、そうするしかないから、そうする。社会的、政治的判断はいつも、そして誰においても、判断材料(そして判断能力)が決定的に足りないところでなされる。状況のすべてを俯瞰的に把握できている人はどこにもいないはず。
そうであるにもかかわらず、社会的、政治的な主張をする人の多くが、自分の立場にさも絶対的な自信があるかのような口調で語り、敵対する判断を悪であるかのように否定するようにみえてしまうのはなぜか。安定した正しさを保証してくれるような「根拠」などどこにもないことは明らかではないのか。多くの人はそうではないにもかかわらず、正義が自分のところにこそあるかのように語る「極端な語り」ばかりが結果として目立ってしまうというだけなのだろうか。脱原発派は原発推進派を生命や人類の未来を利権に売り渡す亡者のように言うし、原発推進派は脱原発派を客観的判断の出来ない狂信者のように言う。どちらも、自分こそものが見えていて、相手方は盲目であるか嘘つきであるかのように言っているように聞こえる。ここで、感情的に吹き上がるのも、冷笑的に相手をバカ扱いするのも、どちらもまったく同じことの裏表だとしか思えない(冷笑的にバカ扱いすることが冷静な態度だと勘違いしている人はすごく多い)。しかし、その確信は一体どこから来るのか。あらゆる判断は間違いであり得るのだが、そのなかでも、社会的、政治的な状況判断は高い確率で間違いであり得るはずなのに。高い確率で間違いであり得て、しかもそこに責任が付随する判断であるからこそ、その判断が、常に仮のものであること、仕切り直し、考え直しが必要となるかもしれないということ(それが将来――もしかすると将来の自分によって――、否定されるものであり得ることが)が、思考や行動に織り込まれていなければならないはずではないだろうか。なのに、「立場」こそが先にあって、自分の判断が間違いでありうる可能性を考慮していないかのような口調で、なぜそんなに簡単に(将来自分がそちら側に移るかもしれない)相手側を、否定(罵倒)できるのか分からない。
繰り返すが、判断するなと言っているわけでも、判断できないと言っているわけでもない。何かしらの判断をせざるを得ないように状況に強いられている。だからこそ…、ということだ。
ここに、昨日書いた、人間関係に巻き込まれることで作動する「対抗意識」の発動があるのではないかと思う。「これが本当に有効なのか」「これが本当に正しいことなのか」を吟味し思考し、それをもとに他者の説得を試みていたはずが、敵対する判断を持つ者に対する対抗意識が芽生え、反感が発動してしまうと、相手に対してどうやったら「勝つ」ことが出来るのかという思考に,知らぬ間にモードが切り替わってしまうのではないか。そこで、判断そのものの妥当性への問いがいつの間にか棚上げされ(世界−状況に関する判断であったはずのものが、他者−人間関係に関する判断へとスライドして)、暫定的な判断として立てられたはずのものが、まるで判断主体のアイデンティティにかかわる何ものか(信念)のようになってしまう。人が、常に他人に対して存在するということの強い力が、人の思考を対人関係の方へと巻き込んで絡め取ってしまう。事がうまく運ぶのか運ばないのかではなく、誰が勝って誰が負けたのかという話になってしまう(誰が勝って誰が負けたかなどクソみたいにどうでもいい)。そういう話は、人の感情を高ぶらせる、というより、かき乱す、敵は、「間違った判断」なのか「反対の主張をする人」なのか。あるいは、「その判断」に反対なのか、「判断してる奴」が気に入らないのか。これらは混じり合い、取り違えられる。「この判断」は、「相手に対する反感」によって歪まされていないだろうか。自分は冷静で相手が盲目だとする人は、その時点で既に取り違えの罠にはまっているのではないか。この時、政治的、社会的な意見の対立は、利害対立ですらない、感情的対立にスライドしてしまっている。
●こんなことは書く必要なかったのかもと思う。というかそもそも、こんな文章を書いてしまうということそのものが、よくない何かに絡み取られてしまっているということだ。