●お知らせ。27日発売の「ユリイカ」11月号(特集・横尾忠則)に、「冥界と身体、冥界の身体/『ゼーガペイン』と横尾忠則」というテキストを書いています。主観的には力作ですが、横尾忠則に興味があって、かつ『ゼーガペイン』を観ている人がどれくらいいるのか…(『ゼーガペイン』はアニメ好きの間でも「知る人ぞ知る」という感じだと思うので)。
これは、この日記でも何度が書いていた、「世界観」とそれ以前にある「わたしというパースペクティブの生成」との位相の違いという話を発展させたものでもあります。それは、「わたし」という限定が既に、それと矛盾する「非わたし(今のわたしとは根本的に異なるもの、例えば明日のわたし)」への変化をあらかじめ内包し、かつ、その「わたし」の生成自体は「わたし」の根本にありながら、「わたし」とは無関係な、「わたし以前」の出来事であるということでもあります。そしてそれが、わたしとあなた(二項関係)の間にある、非物質的な虚の(冥界の)身体のリアリティにつながる、という話でもあります。
http://www.seidosha.co.jp/index.php?9784791702459
もう一つ、30日発売の「映画芸術」441号に、クローネンバーグの『危険なメソッド』のレビュー(「置き去りにされるユング」)を書きました。
http://eigageijutsu.com/
この映画は、ユングとその妻、そして愛人、フロイトとの関係に関する映画で、登場人物はすべて実在した人物。実際、ユングの患者であり、愛人であり、後に医者になったシュピールラインの論文から、フロイトが「死の欲動」という概念のヒントを得たとも言われています。クローネンバーグの映画なので、隅々まできちっと整合的で(史実としてという意味ではなく、映画作品としてという意味で)、そうであるが故に謎(ひっかかり)がなく、謎がないからこそかえって捉えどころがない、という不思議な映画です。『ヒストリー・オブ・バイオレンス』のような有無を言わせぬ傑作というわけではないと思いますが、分かりやすいところが分かりずらいという、妙な味わいがあります。『スパイダー』などからも、クローネンバーグの精神分析好きは明らかですが、この映画はそのような、精神分析的な解釈を誘引する、という感じともちょっと違っていると思います。
●また、『中二病でも恋がしたい!』の4話を観てしまう。すばらしい。H・G・ウェルズの短編小説「白壁の緑の扉」を連想したので、読み返す。