黒田夏子「abさんご」(「早稲田文学」5号)はけっこう面白かった。とはいえこの小説は、「選評」で煽られている程には突飛でも難解でもなくて、(非常に強いクセはあるものの)むしろオーソドックスでクラシカルな味わいをもつような種類の作品だと思った。
確かに、書き出し部分を読む時はちょっととまどう感じだけど(とはいえ、書き出しの一段落が全体のなかで一番面白いと思う、ここで「おーっ」と思う)、二、三ページ読んでコツを掴めば、特にとまどうことなく滑らかに読んでいける。古井由吉とかを読みなれている人ならば、この小説を読むモードに自分を調整することは難しくないんじゃないだろうか(古井由吉は複数のモードの複合技みたいな感じだけど、この小説は強いクセがあるとはいえ、統一されたモードですすんでゆく)。文法的に違和感があるようにみえるところも、感覚的には割合納得しやすい感じでつながっているように思う。
「受賞のことば」で作家自身が、≪藤いろとは書くが藤そのものを作中に出すときにはその名称は書かない≫と言っているように、ぎりぎりまで制限された固有名詞と、かなり節約された指示代名詞という形で書かれている。だから、「同じ対象」が、その都度その都度でいつも異なる描写や呼称によって言い換えられて示されることになる。とはいえ、この小説では重要な登場人物が三人しかいないから、指示対象が混乱することはまずない(三人しかいないとはどこにも書かれていないけど、それは普通に読めば分かるようになっている)。もしこの小説が読みにくいとしたら、それは固有名回避による回りくどさというより、むしろ「ひらがな」の多用によると思う。確かに回りくどい表現にはなっているけど、それをちゃんと字義通りに追って行けば難解さはない。例えば「蚊帳」は次のように描写される(「蚊帳」という言葉は作中には一度も出てこない)。
≪へやの中のへやのようなやわらかい檻は、かゆみをもたらす小虫の飛来からねむりをまもるために、寝どこ二つがちょうどおさまる大きさで四すみをひもでつられた.ぶどうからくさの浮き彫られたきんいろの吊り輪がさすらいの踊り手の足かざりのように鳴るのは、まだ涼しいもう涼しいという朝夕のよろこびだった.≫
●この小説にはほぼ、父と娘と、二人の家事を補助するために雇われ後に父の配偶者となる同居人の三人しか出で来ない。しかも、同居人は父と娘の親密な関係の間に割って入る邪魔者としてしか描かれてなくて、だからこの小説に書かれているのはただ、父と娘の関係と、その関係の舞台となる二つの家とその周辺のことだけだと言える。だが、親とは書かれても父とは書かれず、子とは書かれても娘とは書かれず、同居人の性別も書かれないから、厳密には父と娘とは特定できない。しかし、普通に読めばそう読めるように書かれている。あらゆることが、厳密にはそうとは特定できないが、そうとしか読めないというように書かれている。曖昧な表現が多用されているようでいて、(言質が取れないというだけで)実は曖昧なところはあまりない。このさじ加減が面白いのだが。
この小説の構成は、ある年齢に達した主人公(娘)が、ある夢を見て目覚め、それに導かれるように、父との生活(その家の様子)、父の家からの自立、そして父の死についての様々な事柄を、必ずしも時系列に従わない形で、断片的に思い出しているというような形になっている(人物の年齢や「あれから何年」というようなことがその都度書かれるので、時間的にも混乱はない)。時代背景としては戦中から戦後のことになる。記述は、三人称で一焦点(娘の視点)として一応は整理できる。つまりそれだけを取り出せば非常にありふれた小説といえる。味わいもオーソドックスなものだ。だからこの小説の面白さは、回りくどい語り口の、その回りくどさの「道筋」と、その遠回りによって絡み取られる余白、そしてその独特のクセにあると思われる。
●正直、この小説を読み進んでいる時、中ほどで一度、その回りくどさにちょっとうんざりしかけた。だが、後半の盛り返しで読み進めることが出来た。では、この回りくどさはなにをもたらしているのか。
●この小説の重要な舞台となる二つの家について、一つ目の三階建ての家は≪ふりだしの家≫、二つ目の海岸に近い小さな家は≪小いえ≫と(一先ずは)呼ばれるのだが、≪ふりだしの家≫はともかく、いきなり何の説明もなく≪小いえ≫という言葉が出てくることには少なからず驚かされる(「ふりだしの家」よりも「小いえ」という言葉の方が先に出てくる)。三階建ての大きな家に住んでいた父と娘は、おそらく、母の死と、それから戦争にまつわる何かしらの都合によって、小さな家に移り住まなくてはならなくなる。しかし、それは小説を読み終わったから言えることで、そのような事情が何も説明されないまま、いきなり≪小いえ≫という言葉が浴びせられる。≪小いえ≫って何だよ、ということになる。いや、小さな家のことだろうとは容易に分かるのだが、「小いえ」なんていう言葉があるのか。先ほど引用した≪かゆみをもたらす小虫≫もそうだけど、一見、共通の了解によって成り立つ固有名を排した厳密な辞書的記述がされるようでいて、「小いえ」とか「小虫」とか、勝手に造語しているだけでかえって分かりにくいだろ、という感じになる。つまりここでは、唐突さが回りくどさにつながり、回りくどさが唐突さにつながる。どちらも適切な距離から零れ落ちる。≪かゆみをもたらす小虫≫の場合、「蚊」と言えば一発で済むところを遠回りした上に「小虫」などという耳慣れない言葉を無理やりねじ込んで説明する。一方、(前の家と比較すると)「小さな家」というところを、説明も過程も全て省いて乱暴に≪小いえ≫と言ってしまう。しかしその意味は、さらに読み進んで≪ふりだしの家≫との関係によってはじめて明らかになる。遠回りはその内に強引な近道を含み、近道は結果として遠回りにつながる。意味の流れは線的なところから逸脱する。
●この小説の記述の一つ一つは、一見曖昧でつかみどころがないようにも感じられるが、それらの記述か積み重なることで、一つの明確な像に収斂してゆく(と推察されるように書かれる)。とはいえ、細部は明確なようで肝心なとこが不鮮明であり、不鮮明かと思えば明確でもある。近さと遠さ、親しさと疎遠さ、曖昧さと明快さとが混じり合う。このような感覚が、「想起」のもたらす感覚にとても近いものとなる。固有名を避ける回りくどいような知的な操作は、徹底されることでどこか狂気じみてくるし、淡々としているようで、非常にねちっこく、人物を突き放しているようで、非常に自己中心的にもみえる(同居人の扱い方とか、ちょっとひどすぎるだろ、とか思う)。
●それにしてもこの小説の書き出しは面白い。小説全体よりも面白いかもしれない。ぼくなどはどうしても、この書き出しからこの小説とは別の方向に発展した別の小説のことを考えてしまいたくなるくらいに、これは面白い。二文目の最後が「くつろいだ」へと収束するのもよい感じ。
≪aというがっこうとbというがっこうのどちらにいくのかと、会うおとなたちのくちぐちにきいた百にちほどがあったが、きかれた小児はちょうどその町を離れていくところだったから、aにもbにもついにむえんだった.その、まよまわえることのなかった道の枝を、半世紀してゆめのなかで示されなおした者は、見あげたことのなかったてんじょう、ふんだことのなかったゆか、出あわなかった小児たちのかおのないかおを見さだめようとして、すこしあせり、それからとてもくつろいだ.≫