●昨日の「ごみ」を使って作ってみた。そう意識したわけでは全然ないけど、「縁側で猫が昼寝してる」みたいな感じになってしまっている。



●『中二病でも恋がしたい!』は、だんだん未知の領域に入りつつある。前回の「数学テストで平均点以下なら同好会解散」も、今回の「密かにクラス女子の人気投票をしてランク付けしていたのがバレてその落とし前として丸坊主」も、ありがちな学園ものの定型パターンをなぞっているようにみえて、それを別の次元へと変質させている。
今回、Aパートでは中二病たちの仲良しグループによるあまりに幸福な遊戯の展開があって、その部分を見ている時は、これってスクリューボールコメディーなのかなあと思った。タカナシがキャサリン・ヘプバーンでトガシがケイリ―・グラント。美術の授業中に突然デコモリが侵入してきてニブタニに足払いするタイミングが素晴らしい。あるいは、踏み切り近くのベンチの場面の描写が素晴らしい。だが、それにとどまらなかった。
イッシキが「女子ランキング」を書いた手帳を落としてしまうことで、Bパートでは(前半のあり得ない幸福な関係性から)一転して、男子が女子ランクをつけたり、女子がそれに強く反発したりするような、生々しい、リアルな(ということなっている)教室空間へ移行するというコントラストが描かれるのか、と思った。しかしそんなことにはならなかった。定型パターンならここで必ず、「ほんとに男子って最低」とかいって強く反発する女子がいて、それに対し「うるせーな、このブス」とか言い出す男子が出てくる。しかしここでは、「女子ランキング糾弾」のホームルームが開かれてはいても、発言するのは委員長ばかりで、女子たちは割合冷静に流れを見守り、男子たちはひたすら恐縮する、というか萎縮する。この同質性は何なのかと思う。学園ものにおいて当然教室にいるべき典型的なキャラたちがまったく存在しない。特に男子たちは、このクラスの男子は全員オタクなのではないかというほどの均質性を示している。つまりこの作品は(たんに型通りのものとしてさえ)リアリズムを放棄している。このクラスにはリア充もいなければDQNもヤンキーもいない。
いやそもそも、アニメやラノベに出てくる学級の多くは均質であり、リアルなリア充やヤンキーがいることはほとんどない。そこには、イケメン風の濃度の薄いオタクから、キモオタとされる濃度の濃いオタクまでのグラデーションと、設定としての(典型的な)役割の違いがあるくらいだろう(特に京都アニメーションにおいてはなおさら)。だからそのことは特に変わったことではないかもしれない。むしろ異様なのは、「女子人気ランキング」などという生々しいことをはじめからやりそうもない気弱な男子たちが、何故か別に大してやりたくもないはずの女子人気投票などにのっかってしてしまうということの方ではないか。首謀者であるイッシキからして、「女子」を品定めするような(ホモソーシャルな)キャラではないことが次第に明るみに出てきている。
では何故そんなことをしたのか。おそらくイッシキもまた、ほとんどトガシとかわらない存在なのだ。というか、クラスの男子は全員トガシのような人物であり、クラスの女子は全員ニブタニのような人物であるとさえ予想し得る。イッシキもまた(ほかの男子すべてもまた)高校デビューであり、(どこからか仕入れた)彼にとっての幻想の高校生活(青春)というのが、ギターを肩からかけて登校し、クラス男子が結託してこっそりと女子人気投票をするようなものだったということに過ぎないのだろう。イッシキはたんにそれをなぞっている。それはトガシにとっての「普通」やニブタニにとっての「委員長でチア部」と同じようなものなのだ。しかし、トガシの「普通」はだんだん破綻してきているし、ニブタニもまたキャラが崩壊しつつあり「チア部」からも足が遠のいているようだ。そしてイッシキの「女子ランキング」までもが破綻し、それによって彼にとって高校デビューの象徴である「髪」までもを失うことになる。彼らは皆、徐々に化けの皮がはがれてきていて、高校デビューに失敗しつつある。そして強い力で中学時代へと退行させられている。これこそが「邪王真眼」の恐るべき力なのではないか。
しかしだとしたら、はじめはそれぞれのキャラが異なる実験−実践を担っていたようにみえたこの作品が、いつの間にかみんな一緒になってしまってきていて、今後の展開はどうなってしまうのだろうか、とも思う。だけど、試みは確かに成功していないし、退行してもいるとしても、それは中学時代そのままとは微妙に異なる点は見逃せない。イッシキの丸坊主は、髪を犠牲にしても「ラブレターの件」だけは死守するためのギリギリの主体的な選択でもあった。結果としてラブレターの件にも失敗することになるのだが、思わぬ副産物としてクラス男子からの絶大な信頼を得ることになる(さらにツユリの心も動かす)。あるいはニブタニも、過去の封印には失敗しているとしても、彼女はもう一方で委員長の役割はしっかり果たしてもいる。それは「森サマー」時代とまったく同じではないだろう。つまりそこに複雑な多重性が生まれている。過去はなかったことにはならないとしても、そのままというわけでもない。彼らの実験−実践は、目論見としては失敗しつつあるとしても、失敗することによって別のものを確かに得ている。だからたんなる退行とは言えない。