●生物の目的はDNAを再生産することだというような言い方は非常にあやしい。だいいち、DNAの再生産を目的とするのはDNA自身であって生物(生体)ではない。この点についてドイッチュは過激なことを書いている(『世界の究極理論は存在するか』8章)。ある環境に自分自身のコピーをつくらせる分子を自己複製子(リプリケーター)と言い、DNAもその一種だとする。
≪私は、生物学的「ニッチ」(生体が生存し、繁殖できる環境の集合)とのアナロジーで、ある自己複製子がその複製を引き起こせるありうべきすべての環境の集合に対してもニッチという言葉を用いることにする。インシュリン遺伝子のニッチは、遺伝子が他の遺伝子といっしょに細胞核のなかに置かれているという環境、そして細胞自身が正常に機能している生体内に適切に配置されているという環境、そしてその生体が生命と繁殖を維持するのに適した生息場所にいるという環境が含まれる。≫
≪遺伝子のニッチを決定するもっとも重要な因子は、通常、遺伝子の複製が他の遺伝子の存在に依存していることだ。たとえば、熊のインシュリン遺伝子の複製は、熊の体内に他のすべての遺伝子が存在することだけでなく、外部環境の中に、他の生体に由来する遺伝子が存在することにも依存する。熊は食物なしには生きられず、その食物を製造する遺伝子は他の生体のなかにしか存在しない。≫
≪生体は自己複製子ではない。それは自己複製子の環境の一部――通常は、他の遺伝子についで重要な部分――である。環境の残りの部分は、生体が占めることのできるタイプの生息地(たとえば、山頂あるいは海底)と、生体がその遺伝子を複製できるほど長く存在することを可能にしている、生息地内での特定の生活様式(たとえば狩猟または濾過摂食)である。≫
●生体は遺伝子のニッチでしかない、と。しかしこれは、遺伝子こそが主体であり、生体はそのための条件でしかないことを意味するのではない。ある遺伝子の複製のためには、他の遺伝子の存在と、遺伝子が存在する生体の生存可能な生息地という「環境」に依存している。つまり、別に遺伝子が主体(あるいは法)というわけではない。それは次のような帰結をもたらす。
≪生きている分子――遺伝子――は、生きていない分子と同じ物理学と化学の法則にしたがう分子にすぎない。それらには特殊な物質も、特殊な物理的属性も含まれておらず、一定の環境のなかで、たまたま自己複製子になるにすぎない。自己複製子であるという性質は、高度に文脈的である――つまり、自己複製子の環境の微妙な細部に依存している。ある実体はある環境では自己複製子であるが、他の環境ではそうではない。≫
●ドイッチュは一見、物理的な還元主義によって「生命」というものの特別な意味を解体しているようにみえる。生命などまったくとるに足りない、と。しかしここでいきなり逆転が起こる。
●ドイッチュは、生物が繁殖を通じて自分自身を複製するというのは間違いで、自分を複製するのは自己複製子であるDNAであって、生物(生体)は、親となる生体に具現化されているDNAに従って、その都度あらたに製造されるのだとも書いている。個体は複製されないというのは、当たり前と言えば当たり前のことではある。事故で右腕を無くした人のクローンには、事故にあわない限り右腕があるだろう。右腕を無くしてしまったことで必要に迫られてあみだされた身体の独自の制御法を、右腕をもつクローンが発明することはないであろうし、DNAがそれに興味をもつこともない。しかし、何かしら方法でそれが伝えられ、片腕を欠いているその後の多くの人々にとって、その制御法は大いに役立つかもしれないし、それはその人たちの人生を変えるかもしれない。
遺伝子の「意味」は、それを複製する環境を提示し、遺伝子はその知識を具現していると言える。ここで、「知識」という物理的実体とはちがうものが浮上する。遺伝子は「知識」を具現するものの一つであるが、遺伝子だけが知識を具現し保存するのではない。≪…あるニッチに適応したり、あるいは適応しなかったりしているのは、物理的物体(遺伝子のこと)というよりも一片の知識なのである。≫≪ある実体は(自己複製子ではないとしても)、もしニッチにその知識の存在をひきつづき維持させるならば、そのニッチに適応している。≫ここでドイッチュが書いていることを思い切り端折れば、≪知られている生命がすべて自己複製子に基礎をおいているにもかかわらず、生命の現象がかかわっているのが実は知識だということなのだ≫という部分に集約される。生命とは、≪知識の物理的な具現≫だというのだ。
ここでドイッチュの挙げる例はあまりに壮大である。人類が今まで積み上げてきた物理的な知識によれば、太陽はあと五十億年くらいは安定して輝きつづけるが、その後、赤色巨星となって地球を飲み込んでしまうだろう。その時にもまだ地球上に知的生命が存在するとすれば、彼らはそれを必死でなんとかしようとするはずだ。実際、どうすれば太陽をより長く存続されることが出来るのかは(現在の技術では実現はとうてい不可能だとしても)、原理としてはだいたいのところはわかっている。それに、そのような技術を可能にするための猶予は、まだ数十億年残っている。だとすれば、太陽の将来は、この数十億年のあいだに知的な生命がどのような知を構築することができるかによって左右されるということだ。ドイッチュはそこに、≪核力、電磁気力、重力、静水圧と放射圧のような基本的な物理効果≫に付け加えうる「生命の物理的な意味」を見出す。
≪一〇〇億年後の太陽の色は重力と放射圧、対流と核合成に依存しているが、金星の地質、木星の化学組成、あるいは月のクレーターのパターンには全然依存しない。しかし、地球上の知的生命に何が起こるかには依存しているのだ。≫であるならば、≪生命は宇宙の全般的な物理的発展にとって重要となる。≫ラプラス的な決定論は回避される。
あまりに壮大で誇大妄想的な、そしてマッチョな話ではあるが、ここで語られているのはおそらく、個体は、複製されるのではなく(DNAという青写真に従いながらも)、環境との関係のなかでその都度新たに生まれてくるのだということの意味であるように思われる。
●だがここで、個体がその都度新たなものとして製造されるという宇宙そのものの「決定論の回避」の代償として、複製されることのない個体は必然的に「死」を運命づけられる。生命の物理的な意味とトレードオフの関係で、我々は個々の死を押し付けられる。そこには、ニッチに適応できない自己複製子が複製されないで消えるということとは、別の意味が生じている。生命の物理的意味のために発生した、その都度あらたに製造される個体が必然的にもつ「それぞれ個別の(閉ざされた)死」とは、この宇宙に生じる無数の閉じた迷路のようなものなのではないかと感じる。
●こんなことを長々書いたのは、「ユリイカ」の永野護特集の西川アサキさんのテキストを読んで、そんなようなことを感じていたから。これはぼくが永野護という人の作品をまったく知らないせいかもしれないけど、永野護について/をめぐってめまぐるしく書かれている様々な事柄よりも、登場人物である、先生、女子学生、彼氏未満、ゼミ生、そして不在の妻という人物たちのかたちづくる関係の推移や緊張のようなものから感じられる印象の方を強く感じた。そのような意味で、これは小説なのだと思った。中枢などなくてもシステムは上手く作動するというのは、今日ではもはや常識の範疇にあることだろう。それにもかかわらず、中枢(わたし)という幻にすぎないかもしれないものが澱のように残るという事実を、我々はきれいさっぱりと処分することは出来ていない。価値も重みも失ってなお消えずに迷路(隘路)のような「閉じ」として残る「わたし」をどう処理し、他の「わたし」たちと関係し、そして「わたしの死」の恐怖にどのように耐えるのか。