山本現代で、小林耕平+山形育弘(テキスト・伊藤亜紗)によるデモンストレーション「殺・人・兵・器」を観た。
近代美術館の「14の夕べ」で同様のことが行われた時は確かパフォーマンスと呼ばれていたと思うけど、今回はデモンストレーションと呼ばれる。デモンストレーションと呼ばれ、「殺・人・兵・器」と題されているとそこに社会派的なにおいを感じる人いるかもしれないが、そういうものでは全くない。ここでデモンストレーションとは、示威行為のことではなく論証や実演説明という意味であろう。そこにはまず「これはいわゆるパフォーマンス(パフォーミングアーツ)ではない」(そのような文脈の上に配置されるようなものではない)という意味が込められていると思われる。これはおそらく、テレビショッピングなどで、商品の特徴や優れた点を示すと同時にその使用法を実演することでプロモーションとする「実演販売」に近いものではないかと思う。つまり、これ自身が「作品」なのではなく、あくまで実演による説明なのだ、と。
●とはいえ、これは作者である小林耕平が自作解説をする、あるいは自作のコンセプトについて講演するというものとはまったく異なる。ここで「説明」とはあくまで「使用法」の説明であって、コンセプトや意味の説明ではない。「実演」することによって、それが結果として「使用法」の一例となり、説明となる。小林耕平はこれらの装置(「兵器」と呼ばれている)を考案し、製作した人ではあるが、装置を考案したからと言って、装置の効果のすべてを知るわけではない。例えば掃除機を実演販売するとして、その時、その掃除機の原理がいかに優れているかの説明だけでは足りないのは当然で、それをどのように使用すると、どのような効果が得られるのかが示されなくてはならない。そして掃除機は、それぞれの住居に持ち込まれ、それぞれの部屋をきれいにする。しかし、掃除機を使って実際に部屋の掃除をするのはその部屋の住人であって、設計者でも実演販売人ではない。小林耕平(+山形育弘、伊藤亜紗)は、それぞれの人が自らの部屋を実際に掃除することを望み、それを誘っているのであって、「実演販売」というパフォーマンスそのものを面白がって終わること(それが「作品」として高く評価されること)を望んでいるのではないと思う。掃除機を考案した人も、その掃除機を買った人も、自分の部屋を掃除するという行為においては同等だとさえ言える。家電製品が人々の生活を変えるように、ここでは装置(兵器)が人々の生活を変えることが(きっと)目指されている。だからパフォーマンスではないのだ。
●だがここで、これらの装置が目指す「効果」は、「生きていながら死を経験する」ということだ。これがある「経験」を効果とする以上、その効果のあり様(成否)は外側からではうかがえない。さらに言えば、「生きていながら死を経験する」ということが、具体的にどういうことなのかを定義することも、その「効果」があらわれる前に下すことは出来ない。「生きながらの死」がどういうものであるのかは、「生きながらの死」を経験できた時にはじめて、そうか、こういうことだったのか、と気づくという形で理解されるしかない。例えば、「部屋をきれいにする」という目的の具体性が、ホコリやチリをなくす、ではなく、散らかっている本を整理する、であるとすれば、必要なのは本棚であり、掃除機は何の役にも立たないことになる。だがそれは、いくら丁寧に掃除機をかけても部屋はちっとも「きれいになった」感じがしなかった、というような試行錯誤を通じて明らかになる。だから、これらの装置が「掃除機」と違う点は、装置の作動のなかにこのような試行錯誤が既に内蔵されているということだろう。
明確に定義可能な目標があり、そこに到達するにはどのようなやり方があるのかという形で思考=実践が組み立てられるのではない。目的そのものがどのように構成されるべきなのかという探求と、その目的に到達するにはどのような過程が必要なのかという探求が、絡まり合って互いに切り離せない状態で、同時進行する。厳密に定義されたもの同志を論理的に組み立ててゆくような思考とは別種の思考がここでは動いている。そのような探求の過程で生み出される思考=実践のための「外的な支えや導き」として装置たちはある。
●実演説明は、とりあえず師匠と弟子のような役割をもった二人の人物によって行われる。経験や思考の過程そのものは外からは見えないので、一方が他方に「教え」を与え、教えられたものがそれを試み、その実践の具合や感想、疑問などを教える者に言葉で返すという対話によって、経験の過程(装置の作動例)を外側に示そうとする。だがもちろん、教える者もすべてを知るわけではない。教える者は、「やや有利な立場」をゲームのルールとして「役割上」与えられているにすぎない。これは、掃除機の設計者が「部屋をきれいにする」ことのすべてを知るわけではなし、その実践のすべてを想定し得ているわけでもないのと同様だ。教える者は教えられる者の反応によって、新たな何かを知る。だがその「反応」は、教える者が与える刺激によって、教えられる者から引き出され、生み出される(このような相互作用、相互刺激とも言える「対話」は、正・反・合によって展開される弁証法とはまるで異質なものだ)。その意味で二人は実験者と被験者という関係とも言える。創造的な実験(教え・問いかけ)こそが、創造的な結果(反応・疑問)を生み出す。実験者と被験者という言い方だと、あたかも実験者が主体で被験者が受動的であるようにも思える。しかし、実験とは被験者から何かを引き出そうとすることであり、つまり被験者に教えを乞うという行為であるとも言える。つまり教える者と教えられる者は逆転し、対話はループ状に循環し、装置を媒介としてなされる対話は、ループする二人の脳と身体の協働による思考=実践となる。
このような過程を示すことが、装置(兵器)の実演説明となる。
●ものごとをわかりやすく明確に示したり、何かいかにも気の利いた風なことを言ったりすることは、頭が悪くなければそんなに難しいことではない。しかし、どこに着地するのかも分からず、分かりやすい決着もなく途切れ、オチもない、雲をつかむようなあやふやにも見える話を、人前で、しかも長時間にわたってつづけるということは、単純に、とても勇気がいることだと思う。だが、分かりやすい落としどころを避けるということは、「はぐらかすこと」それ自体が目的化してしまったら、まったく何の意味もなくなる。迂回することそのもの、横道にそれることそのものが目的化してしまうと、それは途端に退屈になる。目的がないことが目的化することの不毛さ。
明確なわかりやすさの退屈さと、まわりくどいわかりにくさの退屈さ。そのどちらにも落ち込まない強靭さが、二人の対話にはあると思う。決着のない途切れ度切れの、何度もやり直されてはまた途切れ、停滞する、しかも雲をつかむようとらえどころのない話の持続(それはおそらく、「時間切れ」によってしか終わらない、これもまた「死」の表現なのか)は、簡単な決着では納得できない志の高さ、執拗さ、厳しさ、生真面目さによって支えられていると思う。むしろ観客の方が、一見あまりにゆるく見えるようになされる対話にみなぎる妥協のない探求に時に堪えられなくなり、安易な救いを求めて笑ってしまったりする。その、安易な逃げとしての「笑い」を鷹揚に許す余裕もまた、この対話には含まれている。笑うことでリラックスし、再び三度、探求へ向かう勇気をその度に得るのだから。