●弟は一歳を過ぎたばかりの子供を置いて九月からアメリカへ単身赴任していて、行ったばかりで忙しいらしく正月にも帰ってこられない。奥さんや子供の顔は毎週末にスカイプで見ているという。こちらの時間で土曜の昼くらいの時刻は、あちらでは金曜の午後十時くらい、一週間の仕事が終わった頃らしい。
一歳半の甥はだから最近、父親をパソコンやデジカメなどのディスプレイ上にあらわれる平面的な人だと認識しているらしい。そして、スカイプでウェブカメラに向かって「パパ」と呼びかけることから、パパは空間的イメージとしてその向こう側(裏側)にいるという感覚があるのかもしれない。あるいは、何かしらレンズのようなものに向かって呼びかけると、平面パパが反応してくれるという因果関係を思っているのかもしれない。甥にデジカメのレンズを向けると、レンズを指さして「パパ、パパ」と言い、近寄ってきて、「パパ、パパ」と言いながらカメラをひっくり返してディスプレイを見せろという仕草をする。撮った写真をディスプレイ上に表示して見せると、そこに写っている自分を指さして「パパ、パパ」と言う。
●甥へのおみやげに何かおもちゃでもと思ったけど、甥の好みとか分からないし、子供のおもちゃについては子供の親の方が詳しいに決まっているので(おもちゃ界のトレンドとか動向とかまったく知らないし、何十年もおもちゃ屋に入ったことがない)、気の利いたものを選んだつもりが既に持っていた、あるいは、そういうのありふれていて飽き飽き、みたいなことになりかねない。なので、多少でも自分も詳しいところで絵本を選ぶことにした。
乗り物が好きだと聞いていたので、電車と、車と、飛行機の描かれた絵本を一冊ずつ選んだ。電車のは、違う方向からやってきた車両が連結する、という出来事が描かれたもの。車のは、最初は単純な道を走っていた車が、次第に街の複雑な曲り道に入ってゆく様を描いたもの。飛行機のは、ページが折り曲げてあって、折られた状態では着地している飛行機が描かれ、折り目を開くとそれが飛んでいる絵になる、という仕掛けのもの。物語ではなく出来事が描かれていて、シンプルな絵で、色がきれいなものを選んだ。
だが、選んだあとに、シンプルな絵の方がよいというのは子供に対する思い込みで、むしろ理解しにくいのではないかという疑問がわいた。子供が散歩の時などに実際に目にしているのはリアルな実物の車で、その車と、絵本のなかの単純化された車とが、「同じ意味を表現している」ことを理解するためには、頭のなかでけっこう抽象的な演算の過程を踏むことが必要なのではないか、と。だからリアルな絵のものや、あるいは「自動車図鑑」のようなものの方が分かり易いのではなかったか、と。
甥の反応を見るかぎり、単純化された絵本の車を自然に「車」として認識したようだったのでほっとした。しかしだとしたら、この車とあの車とは、どの程度似ていて、どのように似ているということなのだろうという疑問がわいた。
甥はミニカーのようなものもたくさん持っていて、それで遊ぶのだが、ミニカーの方は、三次元だし、リアルな車と像としてはとても似ているけど、縮尺が全然違う。シンプルになって色もきれいで目を引きやすいけど、単純化、抽象化、平面化によってリアルな車からかなり大きな像の変換がなされている絵本の車(目の快楽?)と、姿はリアルな車にそっくりだけど大きさがまったく異なるミニカー(世界の能動的操作の快楽?)と、外を走っている実物の車(リアルな力を受け取る快楽?)とを、すべて同じ「車」というものだということとして関連づけて把握するというのはけっこう大変なことのように思うのだけど、子供は一歳とちょっとで既にそのような、異なる感覚入力を束ねて関係づける抽象的な相互変換をごく普通にこなしているのだなあと思った。