●「現代思想」1月号の小泉義之+千葉雅也対談を読んだ。対談の前半部分を読んでいる時はずっとドイッチュの『世界の究極理論は存在するか』を、後半部分を読んでいる時は円城塔の『Self−Reference ENGIN』を思い出していた。以下は対談の内容についてというより、それを読みながら浮かんだ勝手な連想について。
ここでの小泉義之の態度はきっぱりしていて、この感じはぼくが最近はまっている物理学系の啓蒙書に書かれていることとも親和的で、ぼくには突飛であるというよりむしろ常識的(?、それはちょっと違うか)であるようにさえ思われた(「世界そのものがデジタルだ」という言い方にしても、量子論的に考えれば普通とも言える)。それに対し千葉雅也は、いや、それはそうだとしても、本当にそんなにきっぱり割り切れるものなのか、という感じで疑問や保留を(神経症-精神分析的な位置から)提示しているように思われた(これは「あえて」そのような役割に立っているのかもしれないが)。そしてこのやりとりは、ぼくのなかでは、物理系の啓蒙書を読んで、それが描く世界像に驚き、魅了され、説得されると同時に、いやでも、確かにそうだとしても、「人間」はそんな事実をどのように受け止めることが出来るのだろうか(どうしたらちゃんと受け止め得るか)、と戸惑ってしまう感覚と、どこかで共振してしまうのだった(あくまで自分勝手な共振ではあるけど)。例えばp131からp133中段くらいのやりとりとか。まるで、自分の頭のなかの不明瞭で曖昧な脳内会話(葛藤)が、明確になってバージョンアップされておもてにあらわれているかのような感じ。
●例え話。『漂流教室』で未来にとばされた小学生たちの一部は、もう過去には戻れないのだから未来世界にさっさと順応して(記憶も外傷も捨てて)怪物のようなものに生まれ変わるのだけど、残りの小学生たちはそれでも苦難のなかで人間であることに留り、困難な生を生きる。読者はそこに感銘を受け、人間的な価値を見出だそうとする。しかし、小泉義之も千葉雅也も、そのような絶対的な切断の出来事はこの世界に実際にあり得るし(あるいは、いくらでも起こっているし)、その時はさっさと過去を忘れて怪物になってしまえばいいし、あるいは気づけば既に過去を忘れてしまって怪物になっているのだと言っている。その点では同じだと思うけど、小泉義之が、そうなのだからそうなのだと言っているのに対し、千葉雅也は、その時にも人間(のうちの何割か)には、人間であろうとする神経症的重力が(個的にも相互的にも)働くのだとすれば、「さっさと怪物になってしまえばいい」という言葉をわざわざ(繰り返し)言わなければならない局面もあるのではないか、というところを問題にしているように読めた。
●例えばドイッチュによるバタフライエフェクトへの批判は次のようなものだ。それは古典的物理法則の元でしか起こらず、しかしこの宇宙は量子力学の法則に従っているのだから、そんな理屈は通らない、と。量子論的な宇宙では、蝶の羽ばたきは蝶の羽ばたき程度の責任しかこの世界に対してもたず、ハリケーンとの因果関係はない。これは古典的物理世界の連続性(因果関係)の切断でもあり得る。小泉義之は同様のことを違った説明の仕方で言っている。
《「欧州のどこかの銀行がくしゃみをしたら、日本のどこかが風邪をひく」といったお話がまかり通っている。(…)そんなことが成り立っているわけがない。》
《池に石を投げるでしょう。あの波紋は岸まで届きませんよ。必ず消えます。何の影響も残さない。》
《風が吹いて桶屋が儲かったとき、その間のステップは有限数ですよね。風の原因性は、その有限回数で割り引かれて薄まりますよね。風は、その分だけ責任を取ればよいのです。(…)倫理を脅迫的に受け止めてもしかたないのであって、倫理問題は有限責任問題として処理すればよい。むしろ、知識人はそんな有限責任を真面目に考えていないと言うべきでしょう。》
《それなのに、さまざまなフィクションやコンベンションが折り重なって、そうではなく見えているわけです。》
●それに対して千葉雅也は、とはいってもそのような(連続性を強調する)フィクションやコンベンションは現に作動してしまっているし、あるいは自分自身においても神経症は作動してしまっているのではないかということを言っているようにみえる。これは、物理学者はもはや誰も古典力学が正しいとは思っていないとしても、古典的法則が日常レベルでは有用な近似値を導くのに依然として便利なフィクションであるならば、それは今もなお「法則(約定)」として成り立ってしまっている(コペンハーゲン解釈的な世界解釈の二枚舌を受け入れざるを得ない)ことになるのではないかという問題と近いとも言えるのではないか。物理学者でさえ、日常的な感覚としては古典物理の世界に生きているのではないか、と。だから「その抑圧をどうするのか」という問いは必要ではないか、と。
《(…)先ほど「池の波紋は本当に止まっているのだろうか」という疑問をあえて発したわけですが、これはある種の神経症的な疑問ですよね。そこには不安が生じます。もしかすると非常に微細な物理が届いているかもしれないとか、さらに言えば、物理を超えた形而上学的な波紋が届いているかもしれないとか。》
《(…)僕としては、ヒュームの懐疑論というのは、そうした強迫的な因果のインフレーションを感じていたからこそのものだろうと踏んでいます。だからこそ、それを疑うというモチベーションも得られたのではないだろうか。》
《ヒュームにおける社交性の意義についても議論がいろいろあるようですが、それは社会の原理の問題というより、因果性の神経症をごまかしておくボケのような状態を必要とせざるをえない、というふうに捉えたくなるんです。》
●これは精神分析の(技法の)問題のように思えるけど、これに対する小泉義之の応答は簡潔で、《そんなもの(因果性への不安)は遮断すればよい》し、《現に遮断してしまっている》、と。そこに特別な技法なんて必要ないし、問題にならないと言っているように聞こえる。
《(…)それこそ事実性として、無制限に辿れない。人生は有限ですから。とすると、死後のその先も続きうるような分析や証明の余白や過剰によって、今ここでの振る舞いを制約されているはずがない。》
これはとても強い応えだし、スローガンとしてかっこいいし、鼓舞されるものもある。ただ、ここで「有限」と言っているけど、この有限をどう考えるのかこそが問題になってくるし、その時にはやはり技法の問題が出てくるようにも思うけど。突っ込んだ話はちゃんと小泉義之の本を読まないとこの対談だけでは分からないけど。
●とはいえ、次の小泉義之の発言は、下の世代へのメッセージとして受け取るのならば素晴らしいと思った。他人に対して無駄な抑圧を作動させようとふるまう人たちには本当にうんざりするので。
≪内包性や潜在性がマジックワードになる時代も終わりました。忘れてしまえばいいのです。≫
≪システムと単数形で語る時点でアウトでしょう。それって、グローバリゼーションや世界史と同じ程度のファンタジーですよ。これも忘れてしまえばいいのです。≫
≪若い人は、退嬰的な知識人など無視して、すっきり忘れて歩いていけばいいのです。≫
●たんに忘れてしまえばいいし、否が応でも既に忘れてしまっている。これは解放的であると同時に、とちょっとやばいくらい恐ろしいことでもあるけど。
●後半の大きな話はすごく面白いけど、それこそメイヤスーとかちゃんと読まないとなんとも言えない感じ。
ただ、一方で、ある前提が、ある日とつぜんこの世界から跡形もなく、消えたという痕跡さえ残らない形で消え去ることがあることを認めるとすれば、もう一方で、ある日とつぜん≪究極にパワフルな神≫が、たんに偶然に発生するかもしれないと言うことも出来るということを認めるのも、妥当である気はする。というかそれは相補的なのではないか。そこに何が賭けられているのかは別として。
量子論的には、あらゆる出来事の可能性はゼロではなく、例えばわたしの身体がそのまま壁を通り抜けることができる可能性もなくはないという。しかしそれは、宇宙の寿命よりはるかに長い時間に一度、起こるか起こらないかという程度の確率でしかないらしいので、通常は起こらないと考える。それは「起こらない」けど、起こったとしても不合理ではない。
ダグラス・アダムスの『銀河ヒッチハイクガイド』には、そのようなごく小さな確率をコントロールすることができるという「無限不可能性ドライブ」という装置が出てくる。例えばその作動によって、核ミサイルが一匹のクジラに変化してしまったりする。何の因果もなくとつぜん(確率が操作されたとはいえ、それは「偶然に」だと言える)空中に出現したクジラは、自分自身の出現の理由も、自分の置かれた状況についても、何も知りえないまま、出現して間もなくそのまま落下して死んでしまう。ここで核ミサイルがクジラに書き換えられたように、宇宙全体がとつぜん書き換わって(神があらわれて)しまうことも、ないとは言えないと言えるのかもしれない。宇宙の法則そのものが書き換えられるのだから、その時、前宇宙での確率は関係なくなってしまうし。いや、ほんとにそんなこと言えるのか?
●これもまたまったくのトンデモな連想なのだけど、ドゥルーズの『シネマ1』が古典力学的で『シネマ2』が量子力学的なのだとしたら、『シネマ』全体でコペンハーゲン解釈ということになるのだろうか。だとしたら、『シネマ』をライプニッツ論として読む西川アサキ『魂と体、脳』は、古典物理学的なマクロなレベルまでを量子力学によって一元的に記述しようとする(「波束の収束」問題を解決してコペンハーゲン解釈を超えようとする)試みとパラレルと言えるのだろうか。有機体やクオリア、共可能性、中枢の生成というマクロな問題が、モナドという、物質とも魂ともいえない抽象的な基本単位(素粒子であるかのような)から語られるというのは、そういうことだからと言えるのだろうか。
中枢の生成と崩壊(交代)というシミュレーションの過程は、この対談で語られている世界像(準−安定状態)とも近い気がした。
●いや、このような連想こそ、ありもしない因果関係のねつ造の悪しき例ということになるのか。