●昨日の樫村晴香の講演のタイトルは「この20年の思想を思想化する」というものだったけど、内容的には「20年」じゃなくて「2000年」という話で、この2000年くらいの間に人類が蓄積してきた文化的な(あるいは精神的な)土壌のようなものがウソのように崩れてきているという話だった。それを、「目の前でパンと手を叩かれると、その瞬間に、この2000年が何かの間違いであったことにみんながハッと気づいてしまった」ような感じだと表現していた。今、起こっていることは、近代の終焉とかいうような小さな話ではなく、もっと根底的な何かの崩壊であるということは、多くの人が感じていることではあると思う。樫村さんは、そのような文化的な達成の崩壊はもう止めることの出来ないもので(「「帝国の中心」のようなマッチョな場所では、もうしばらくは存続するかもしれないけど、それももう長くはないだろう、と)、そのことに対して悲観的な人もいれば、その崩壊そのものに希望を感じる人もいるだろうけど、それは、民主主義というものの根底の崩壊でもあり、「左翼」である自分にとってはとても恐ろしいことだ(何かとんでもなくひどいことが起こるのではないか、と)、という風に。
ただ、繰り返しになるけど、そのこと自体は、もう多くの人が気付いていると思う。小泉義之はそれに対し、その崩壊の次にくる新しい何かが生まれてくる前に、我々は死んでしまうだろうというようなことを言っていた(それは世代の問題ではなく、おそらく今、生きている人すべてに当てはまる)。
古いものは根底から崩壊しつつあり、新しいものはまだまだやってこない。そのようななかで(2000年の文化の蓄積――哲学?――に匹敵する)強い力と密度をもつのは、やはり自然が与えてくれるものの力ということになるのではないか、と。最近は誰でもそうでしょうが、やはりエコロジーですね、と。そこで樫村さんはラオスの山の中に住み、一日じゅうジャングルのなかで座っている、ということになる(ラオスの山はまだほとんど人の手が入っていなくて、五、六十メートルもある樹が普通にある、と)。熱帯のジャングルによって与えられる、圧倒的な感覚的密度(生命の危険の感触ということまで含めた)というものがあるのだろう。ただ、そう考えたからそうしているというより、もともと樫村さんはそういう人なんじゃないか(視覚=感覚的密度が、言語=高度な知的圧縮≒他者の方からやってくるので、その両者は同値で、というか一つのことの裏表で、常に循環し反転している)という気もするけど。
それともう一つ、世界には、まだまだ、自分では予想もできないような不思議で面白い人がいる、ということ。そのような人々の予想の出来なさや不可解さが、崩壊しつつある文化的洗練や圧縮の代替物となり得ているという感じ。だから世界中の様々な場所をまわっているということなのだろう。自分の脳は自閉症的だから、自分から人に話かけることはあまりできないのだが、世界中どこでも、例えば動物園などで一日ぼんやりしていると、たいてい向こうから誰かが話かけてくる、という話がおもしろい。
●昨日の話を聞いていて、樫村さんと磯崎(憲一郎)さんはけっこう似ているんじゃないかと思った。イメージの細部の感触は違うけど。例えば、具体的な情景と性的な情動と抽象的な思弁性(ある種の「真理の言葉」)が分かちがたく結びついていて、つまり、視覚が言語の方からやってくるという感触があり、そしてそれが常に時間の発生と結びついている。そして磯崎さんの小説にも視点がない。さらに、夕暮れとジャングルと動物が好き、というのも共通している。