●『流れよ我が涙、と警官は言った』をなんとなく読み返していた。ディックの小説にはだいたいどれも、女性へのグチや恨み辛みのようなことが延々書かれているという印象がある。そしてそれこそが、小説の基底にある基本的な感情なのではないかとさえ感じられる。ディックの女性への感情は、うんざり、と、依存、と、恐怖、とが入り交じっていて、そしてそれはそのまま、世界への感情とパラレルであるように感じられる。
『流れよ…』はまさに、主人公が女性によってその存在の危機に陥らされてしまうという話だ。主人公ジェイスンの存在の基底を握る女性は二人出てきて、一人は、化粧気もなく、15、6歳にも見える非-性的な女性キャシイであり、もう一人はがたいもよくボンテージ風の服装に身を包んだあからさまに性的な女性アリスであり、そのイメージは正反対だが、ジェイスンにとっては二人とも、うんざりと依存と恐怖によって結びつけられている関係だと言える。キャシイは、リテラルな、あるいは図の次元でジェイスンの存在の根底を握り(彼女が偽装する偽のIDカードがなければ彼は「この世界」での存在が危うくなる)、アリスは、メタレベル、あるいは地の次元で、彼の存在の根底を握る(そもそも「この世界」全体が彼女の欲望によって歪んでいる)。ジェイスンの存在の存立基盤そのものが、ヒステリックで、メンヘラ的な彼女たちの不安定な気分に依存している。彼は、彼女たちに愛されているが故に、その力(彼女たちの世界)に把捉され、世界の存立基盤の不安定性に直面せざるを得なくなる。
彼は、彼女たちに愛されているだけでなく、彼女たちを愛してもいる。つまり「この世界」に対する執着をもつ。ここで愛するということはそのまま、うんざりと依存と恐怖によって関係が繋がっていることだと言える。そして、それを体現しているのが二人目の(というより真の)主人公であるフェリックスであろう。フェリックスとアリスは双子の兄妹であり、あらゆる意味で相容れない存在であり、同時に切っても切れない深い相互依存の関係にある(性的にも)。『流れよ…』は、一方にジェイスンとキャシイ、そしてへザー、ルース、メアリーといった、具体的な女性との個別の関係(による、うんざりと依存と恐怖)があり、他方で、フェリックスとアリスという、私と世界との関係の根本を規定するようなメタ的な関係(における、うんざりと依存と恐怖)が同時に重ねられてあるという話だと言える。そして、ジェイスン-キャシイ関係とフェリックス-アリス関係との間をジェイスン-アリス関係がなめらかにつなぐことで、リテラルなレベルのジェイスン-キャシイ関係と、メタレベルのフェリックス−アリス関係という、そもそも二次元と三次元のようにレベルが異なる関係が同居するかのように、連続的に捻じれて接合されてしまう。
例えていえば、三次元のフェリックスにとってジェイスンは二次元の自分であり、ジェイスンにとってフェリックスは三次元の自分であり、そうである限り互いに出会うこともなくそれぞれの次元でそれぞれ無関係に生きていたはずなのだが、そのような安定的なカテゴリーの作用を強引に(何の合理的理由もないまま)攪乱し、歪ませてしまおうとする力がこの世界には働いていて、その力が三次元においてはアリスという代表的な形象を持ち、二次元においてはその反転形としてキャシイ、そしてその多様な派生形としてへザー、ルース、メアリーなどの多様な系へと分岐する。フェリックス(≒ジェイスン)は、そのような力の気まぐれにうんざりしつつも、そのような力によって自らの存在の基盤が握られている(存在そのものがその力に依存している)ことを知っていて、そのことに対する恐怖の感情をもつ。そして、そのような感情の複合のことを愛とする。
『流れよ…』にある世界観と基底的感情はそのようなものであるように感じられる。そして、このような感覚は、ぼくにとっては分かりやすい(納得しやすい)。アニメによくある、女性キャラの無垢や無自覚、あるいは戦闘美少女における戦闘の非利己的な性質、などに「世界の重要な何か」が込められているような表現よりはずっと、感じとしてよく分かる気がする(これはどちらがより「実感できる」かということで、別にどちらがよりよいという話ではない)。
●で、上記のように、女性キャラとの関係によって表現された世界に対する基底的感情が、うんざり感と依存と恐怖であるようなアニメには何があるのか考えてみると、まずぱっと思い浮かぶのは「ハルヒ」だろう。ハルヒとはまさに、アリスでありキャシイであり、『涼宮ハルヒの憂鬱』はもともとディックのパロディのような作品ですらある。しかし、キョンハルヒに対する感情は、依存と軽いうんざりはあっても、ディック的な、絶対的疲労であるような深いうんざりや根底的恐怖には結びつかない。「やれやれ系男子」であるキョンの示す「やれやれ」といううんざり感は、(存在の根底を握られているという依存ではなく)ごく普通の意味での、相手の能動性への依存を示すもので、ゆえに恐怖とは結びつかない(あるいは、恐怖が露呈するところまではいかない)。だからどちらかといえば「ハルヒ」でも、女性キャラの「無自覚さ」の方に重きがおかれている気がする(とはいえ、『涼宮ハルヒの消失』では――つまり、キョン長門関係においては――けっこう近いところまで行ったかもしれない)。
ディックの感じにけっこう近いのが『化物語』なのではないかと気づいた。アララギコヨミには、キョンにあるような世界への根底的な信頼感が希薄で、彼には自らの存在の大部分をヒロインたちに預けてしまっている感じがある。ただ、世界への基底的感情にはディックにかなり近いものがあったとしても、『化物語』にあるのは、主人公の饒舌によって、世界の不安定さや世界への恐怖を埋めてしまいたいという欲望であるように思われる(ディックにおいては、そのような不安定さが露呈する様が描かれる)。だから、世界の基底そのものが歪むというところまでは行かない。
因果関係を口先ででっち上げ、それを強引に「世界の側に信じ込ませる」ことで、世界の不安定性を回避し恐怖を覆い隠そうとすること。ここで「世界の側」とはヒロインたちであると同時に、ヒロインにとりついた怪異であり、それらはそもそも同一のものだ。「怪異にとりつかれたヒロイン」こそが彼にとって怪異=世界であり、彼はそこから逃れることはできない。
アララギコヨミの、まさに戯れ言でしかなくそれ自体としてはおもしろくもない饒舌が、いわゆる「やれやれ」系男子たち傍観的な口調と異なっているのは、世界の因果律を書き換えるほどの勢いで繰り出される饒舌−詭弁が、(何が起こるが分からない世界に対する、あるいは存在が怪異であるとしか思えない女性に対する)恐怖を、必死で押し留め押し返そうとする行為だというところではないだろうか。そして、アララギコヨミの不死性は、彼の存在自体がそもそも口先だけでできていて、だから破綻しても後からどうとでも言い換えることができる、ということを表わすのではないだろうか(彼の不死性はそもそも、女性キャラ-吸血鬼に依存しているから、それ自体怪異でもある女性に依存している、彼はヒロインたちに対して「やさしい」のではなく、たんに彼女たちから逃れられないことを知っているということだろう)。彼の存在はたんに(空疎な)言葉でしかない。だが、不死であるからこそそこには、果てなく繰り返される、恐怖があり、痛みがあり、うんざり感や依存も存在するのだと思う。
(逆に言えば空疎な饒舌は裏にある恐怖---世界に対する、ヒロインたちに対する---に支えられてはじめて説得力をもつのであって、それが忘れられると、例えば『偽物語』のような、ただの弛緩したエロアニメになってしまう。)