●引用、メモ。E・ヴィヴェイロス・デ・カストロ「内在と恐怖」(「現代思想」2013年1月号)から。
ここには、一つの自然(客観、もの自体)と、それに対する複数の文化(解釈)がある(多文化主義)というのではなく、「複数の自然」があるのだとする、いわゆる「多自然主義(パースペクデヴィズムとも言われる)」についてわかりやすく書かれている。
●魂の一元論においては、すべてのものに魂があり、よって「すべての存在が人間であり得る」。その時、その問題はまず摂食行為において現れる。すべての「食べること」は、「人を食べること」を基礎とするこになってしまうから。
《問題は、それが口から進入してくる際に一層重大になる。「イグルリクのシャーマンは、ある時、ビルケット-スミスに次のように話したという。『生を巡る最も重大な危険は、人の食物がもっぱら魂でできているという点にある』と。》
《それは、アメリカの土着の人々にとっては食人行為が、あらゆる咀嚼行為の必要不可欠な構成要素であるということである。全ての存在は、人であることができるという意味において人間なのだから。こうした宇宙の背景にある人間性は、全存在について説明するというより、ある存在についての説明における構成的な不確定性である。》
《(…)原初的存在の全てが人間という形態をとる世界なのだ。(…)全ての存在が人間なのであれば、無条件で人間であるという確信を持つことなど誰もできない。誰ひとりとして、われわれも自身を含め、実際のところ、人間たちはある特定の状況下において人間性を「脱条件付け」なければならない。》
●この時、ある対象が人間であるのか、動物であるのか、精霊であるのかについて、《外見で判断してはならない》ということになる。
《(…)全ての(もしくはほとんどの)存在が人間であるというのならば、外見を額面通りに受け取ることなどできるはずがない。人間に見える何かは動物かもしれないし精霊かもしれない。動物や人間に見える何かは精霊かもしれない、というように。存在は変態する。(…)当たり前だがこのことは、われわれが慣れ親しんできた「感覚を信じるな」という認識論の警告とはあまり関係がない。「信用され」得ないのは、われわれの感覚ではなく人間だからである。外見は、その背後に隠されている(とわれわれが想定する)本質とは異なっているからではなく、厳密には外見それ自体であること、あるいは幻影であるために欺くのだ。》
●このような地点に、多自然的な宇宙のヴィジョンがたちあがる。
《今回、取り上げたいのは、アメリカ・インディアンの「宇宙論的パースペクティヴィズム」である。それによれば、それぞれの種や存在には活喩法的もしくは擬人法的な統覚作用が付与されており、自分自身を「人」だと見做している。その一方で、生態系における他のアクタントたちを、被補食者もしくは補食者(誰にとっても固有のジャガーがいる)、精霊(飽くことなく食人的か、性的に貪欲な)、あるいは彼らの文化における単なる人工物といった非-人格、もしくは非-人間だと見做すのである。ジャガーは人間をイノシシだと見做し、仕留めた獲物の血をトウモロコシから作ったビールだと見做す。死者(死者は人間ではない。ここで取り上げる動物についての多くのことは死者にも当てはまる。さまざまな局面において、動物は死者のようであり、死者は動物のようだからである)は、コオロギを魚と見做す。バクは塩塊を、彼らが集まる大きな儀礼小屋だと見做す。》
●われわれがジャガーとして見ている、今、目の前にいる「それ」は、「それ」自身は自分のことを人間だと思っていて、人間である(と思っている)われわれのことを「イノシシ」として見ている。しかしこのような言い方では誤解されやすい。ここで、われわれとジャガーとが異なる眼(視点)をもっているということの意味は、認識論的な問題(客観物をどのように感覚-解釈するのか)ではなくなっている。ここからはややこしくなるが、とても重要な思考の転換がなされていると思う。
《(…)異なった眼を持っているということは、「同じもの」を異なった「仕方」で見ているということを意味しているのではない。それは、他人があなたと同じものを見ていると「言う」時に、実際に彼が何を見ているのかわからないということを意味しているのである。》
《換言すれば、パースペクティヴィズムは、それぞれの種にとって妥当な理解の範疇によって部分的に把握されるような《物自体》を想定しないのだ。人間にとっての血がジャガーにとってはビールであるというように、インディアンが(あたかも超-カント主義者のように)「Xと同等の何か」が存在すると考えていると想像するように、われわれが誘われているというわけではない。存在するのは、異なって把握された自己同一的な実体ではなく、むしろ血-ビール、塩塊-儀礼小屋、コオロギ-魚といった、直接的で関係的な複数性なのである。ある種にとって血であり他の種にとってビールであるようなXがあるというわけではない。血|ビールは単一的な実在の一つとして存在しており、そしてそれは人間|ジャガーという複数性の特徴なのである。》
●「X」という何かしらの実在があり、それが視点の違い(人/ジャガー)によって「血」に見えたり「ビール」に見えたりするというのではなくて(それは多文化主義だ)、「血/ビール」という直接的であり関係的でもある、それ自体として複数的で同時に単一的なものとしての実在(多自然)があるからこそ、「人間/ジャガー」という複数の視点(異なる眼)が生じている、と考えてよいのだろうか。多数の自然(客観、身体)が重ねあわされているなかに、まったく同じ一つの魂(人間)が分布されていることによって、複数の視点(それぞれに異なる眼)が不可避的に生じてしまう、という風に。ちょっと量子論的な多宇宙論みたいだけど。このような転換をアタマが受け入れることが出来れば、いろいろなことが違ってみえてくる。
だがその時、互いが自らを「人」であると見なしている複数性(認識論的ではない、視点−眼−像の複数性)はしかし、補食者-非補食者の関係においては特に、両立することができなくて、互いに対して排他的になる(デコヒーレンス?、とか言っちゃうのはあまりに軽薄だが…)。
《(…)視点の複数性を定義するのは、その構成上の同時存在不可能性である。人間およびジャガーは同時に人であることができない。部分的かつ暫定的にですら、ジャガーにならなければ血をビールだと経験することは不可能である。パースペクティヴィズムは、それぞれの種が自身を人と見做しているとするが、それはまた二つの種が同時にお互いを人と見做すことができないとも主張している。それぞれの種は、他者が彼ら自身を人だと見做しているという事実を「見失って」はならないが、同時に次の事実を忘れてしまわなければならない。「それを見ない」ことができるという事実である。食べるために殺す時、このことは特に人間にとって重要である(私は今、人間の立場から語っている)。》
●自らを「人」だと見なしているわれわれがイノシシを食べる時、イノシシもまた自らを「人」だと見なしていることを「見ない」でいる必要がある。あるいはちょっとややこしくすると、自らを人だと思っているジャガーが、ジャガーにはイノシシに見えているであろう人を食べる時、ジャガーは自らの目にイノシシと映っているものが同時に人でもあることを忘れている必要がある。であれば、イノシシとしてジャガーに食べられようとしている人でもある人間は、人である自分が、人でもあるジャガーにイノシシとして食べられていることを「忘れて」いるのだろうか、「知って」いるのだろうか。
しかし、この、捕食関係においてあらわになる両立不可能性は「すべて」ではない。われわれは部分的には、《他の動物が彼らを見做すのと同様に彼らを見做すことが》あるのだし、それはわれわれにとって必須でもある。
《(…)われわれが、補食する動物については彼らが彼ら自身を見做すのと同様に見做すことを放棄しなければならない一方で、他の動物が彼らを見做すのと同様に彼らを見做すことがあるということは時に興味深い。ある特定の動物がどのように見做しているのかを知ることは、時に有用なだけでなく必要不可欠でもある。ある動物種の精霊によって病に陥った人間を治療したり(その時、シャーマンは攻撃を仕掛けている種と交渉しなければならない)、敵を攻撃するためにジャガーアナコンダの狩猟能力を手に入れたり、上から(空から)もしくは下から(川底から)世界がどのように見えるのかを知ろうとする時などにおいて。》