●「日経サイエンス」三月号の特集「量子ゲーム理論」を読んだ。
http://www.nikkei-science.com/201303_030.html
まあ、全体としてざっくりした紹介記事でしかないのだけど、とはいえ、ここでは、量子論的な論理が「物理学」の問題としてではなく、我々が普通にものを判断するときの常識的な合理性としても考えられるのではないか、ということが書かれていると思う(これは「ゲーム理論」という限定された固有の問題に限ったことではないはず)。通常、量子論的な理屈は常識に反していて、ただ物理的でミクロな領域でのみ妥当であるとされてきたけど、実はそうではなく、古典的な論理(合理性)よりも、よりよく我々の行動を説明し、記述することができるかもしれない、と。でもこれは、量子論素粒子論が情報理論としても考えられることをみれば、別に不思議なことではないとも思える。
《量子的重ね合わせは、この混じり合った気分をうまくとらえている。ただしこれは、一部の物理学者が提唱しているように人間の頭脳が文字通り量子コンピューターだという意味ではない。そうではなく、量子物理学が人間の思考の流動性を表現する有効な比喩的手段だということだ。》
《人々は合理的には行動しないというのが社会通念だ。しかし、この"合理的"とは何だろう? それは単に古典的な論理の法則に従うということだ。量子物理学においてまず展開され、現在では心理学にも応用されている拡張された論理体系では、見かけ上の非合理性を論理的に説明できる。》
古典物理学的に記述されたものを量子物理学的な記述に書き換えるということであれば、それは物理学の問題でしかないかもしれないけど、量子物理学によって発展したある「論理」が、我々が常識的に使用する「論理」よりも、心理、社会、経済、政治などの局面で人間がみせる行動をよりよく説明するということになれば、その「説明体系」の書き換えはそのまま、心理的、社会的、経済的、政治的な(心理学的、社会学的……、ではなく)出来事とならざるを得ない、と言えるのではないか。
ゲーム理論において囚人のジレンマというパラドックスがある、そうだ。AとBという二人が窃盗の共犯として逮捕されたとする。二人は当然バラバラに取り調べを受ける。警察は二人のそれぞれに、もし共犯を認め犯行を自白したら、自分は釈放され、さらに報償を得ることができるが、相手が自白して自分が自白しなかった場合は、通常よりも重い罰が与えられると告げるとする。両者が共に自白した場合は、両者とも通常の罰を受けることになり、二人とも自白しなければ、証拠が不十分で二人とも釈放される、とする。
この時、A、Bがともに合理的な判断をしたとすれば、両者とも自白することとなる。もし相手が自白しなかった場合、自分が自白すれば釈放される上に報償までもらえるし、もし相手が自白していたとすると、自分が自白しなければ通常より重い罰を受けることになってしまうから、相手の出方がどうであれ、自白することが最も自分の利得にかなう。こうなると必然的に二人とも自白して、通常の罰を受けることになるだろう。
しかし実は、「この二人」にとって最も高い利益となるのは、二人ともに自白しないで釈放されるという場合であるはずだ。この合理性は結局、最悪の事態(自分だけ思い罰を追う)を避けることにしかなっていない。つまり囚人のジレンマというパラドックスは、個人が最も自分の利得にかなうように合理的に行動することと、その個人が所属している集団や社会(ここでも最もミニマルな集団で「共犯の二人」になっている)にとって可能であるもっとも大きな利益を得る判断とがかみ合わなくなってしまうということを示す最も単純な例だといえる。二人とも黙秘するのが一番いいことは分かっていても、自分が「黙秘」を選択するのはリスクが大きすぎる、ということになる。それぞれの個人という場においての合理的(最良の)判断が、集団にとって(お互いにとって)の、可能な最良の利益へと導く判断と食い違うことになるとすれば、個人主義が否定される危険もある。
●で、ここで「量子ゲーム理論」では、二人の選択肢が量子もつれになっていたとしたら、と考えるという。そうすると、「自白する」「自白しない」の二つの他に、「自白と黙秘の五分五分の重ね合わせ」(量子戦略Q)という戦略もアリになるのだという。
《もし2人の選択肢が量子もつれになっていたら、利得グラフの形が変わる。「自白」「黙秘」に加えて「五分五分で自白と黙秘の重ね合わせ」(量子戦略Q)のような新たな選択肢が許され、それらの混合戦略も可能になる。(…)アリスが最大の利得を得るのは、ボブが100%自白して自分が100%量子戦略Qを取る時と、ボブが100%黙秘して自分が100%自白する時だ。だがボブに黙秘する動機はない。ボブの側も事情は同じなので、結局「2人とも100%量子戦略Q」がナッシュ均衡になる。しかもこの時、2人が相手の利得を侵害せずに得られる最大の利得となるパレート効率性が実現し、ジレンマは解消する。》
個人における判断で最も利得性の高いものとなる合理的選択(ナッシュ均衡となる選択)と、互い(集団)にとって最も利得性の高い合理的選択(パレート効率的となる選択)とが、どちらも「五分五分で自白と黙秘の重ね合わせ」となって一致するという。つまりこの場合は、個人における判断がそのまま、相手の利得を損ねずに得られる最大の利得へとつながり、個人主義は守られる。囚人のジレンマは解消される、と。
しかしここで、じゃあ「五分五分で自白と黙秘の重ね合わせ」って、いったいどういうことなの、というかそもそも、選択肢を量子もつれにするって、具体的にどうやったら可能なの、という問題がでてくる。それが、シュレーディンガーの猫になれというようなことだとしたら、それは不可能じゃん、と。ここで、選択肢を量子もつれにするとしたらその時は、AとBはそもそも独立した(切り離された)個人としてではなく、一つの「群」のような状態になっていることになると思うので、それは既に個人の判断ではなくなっていることになるのではないだろうかとも考えられる。
●だけど、これって一見、理屈によるまやかしみたいにも見えるけど、なんかすごく重要なところに触れている、というか、その近くをかすっている感じがする。おそらく、芸術作品によって、数式とは異なるかたちで、このような「選択肢が量子もつれになった状態」という常識外れの状態を、図示するのではなく、具体的に感覚可能にすることを考えることができるのはないかという気がする。
●ここまでは、思考実験としての囚人のジレンマだけど、これとは別に、実際に囚人のジレンマのような状況をつくって人間を使って実験すると、量子的な思考実験とも絡むような、不思議な結果が出てくるという。
《古典的な囚人ゲームにおいては、ボブが自白したらアリスは自白するし、黙秘しても自白する。当然原理にしたがえば、たとえボブの選択を知らなくても、アリスは自白するはずだ。
ところが実際に被験者を用いて行われたいくつかの実験では、アリスはボブが自白したと知ると高い確率で自白し、黙秘したと知ってもなお自白する傾向が見られるが、ボブの決定を知らないときには、自白する確率はそのどちかよりも低くなって黙秘する確率が高くなる。現実の人間は時として当然原理に反する選択を行うことがあるのである。》
●ここで、AがBの選択を「知らない」ことによって、一種の疑似的な量子もつれに近い効果が現れるのではないか、ということが言われている。そしてそれによって、「二人とも黙秘する」という(古典的な合理性によっては決して出てこないはずの)パレート効率的な(より良い)判断がなされる可能性が増すことになる、と。ここで「互いに黙秘する」が最善解であるのは古典的なゲームだから、「自白と黙秘の五分五分」という解になる量子的ゲームでは勿論なくなってしまっているけど、しかし、純然たる古典的合理性に従うものとは違った(半ば量子ゲーム寄りの)出来事がここでは起こっているとも言える。そして量子論的な合理性によってそれは説明可能である、とされる。
《(AがBの選択を知らない場合の「黙秘」の確率は)当然原理によれば、ボブが自白した場合にアリスが自白する確率と、黙秘した場合の自白する確率の間のどこかになると予想される。だが量子力学では当然原理は成立しない。ボブが自白した場合のアリスの重ね合わせ状態と、黙秘した場合の重ね合わせ状態とがさらに重ね合わさり、新しい重ね合わせ状態ができる。「ボブもアリスもともに自白する」「ボブが自白しアリスが黙秘する」「ボブが黙秘しアリスが自白する」「ボブもアリスもともに黙秘する」という4つの状態が重ね合わさった量子もつれの状態だ。
この量子もつれ状態でアリスが自白する確率は、まったく予想外の結果となる。それはたとえて言えば、もとの2つの量子状態における「自白」の確率が、水面に広がる波のように互いに干渉するかのような振る舞いだ。確率は干渉効果で強め合ったり弱め合ったりし、時として元の2つの状態の確率の範囲を大きく逸脱する。》
●相手の出方を知らない(情報がない)ことによって、疑似的な量子もつれ的な何かが生じるということは、ぼくがずっと考えている、二人称から一人称と三人称が分離するということとも関係があるのではないかという気がする。でも、ここから先をこれ以上つっこんで考えるには、やはり数学ができないと厳しいなあとも思ってしまう。