●『たまこまーけっと』四話。母の不在が強調され、その不在があんこ(たまこの妹)に影を落とす、しかし、あくまで肯定的な形で、という話。とても上品な表現だと思った(改めて考えると、『たまこまーけっと』は全体としても「母」が希薄だ)。
幼い(夢のなか=過去の)あんこの頭に乗せられる金色の飾りものが、現在の(目覚めた)あんこにおいては鳥へと変換され(あんこの頭の上に乗っかる鳥)、その結果、鳥が白から金色に変化する(着色される)ことになる、というイメージの発展も面白い。鳥は、神輿に乗せられるシンボルとして金色に変化したのち、改めてあんこの頭上(クローゼットの上だけど)に乗り、幼い頃の金色の飾り物と同様に、祭りの日のあんこを祝福する(好きな男の子との時間をつくる)。白い鳥が金色に着色されるのは、冒頭で、あんこが白粉を塗られているイメージの反転形とも言える。
あんこは、(集会所のように使用されている銭湯で)幼い子供の前ではかつての「母」の位置に移動して、子供に「お姫様みたい」と言って喜ばせ、祭りに対して開かせる。しかし家へ戻ると、クローゼットに閉じこもって再び(祭りの衣装を恥ずかしがった)「幼い頃」の子供の位置に退行する。だがそこでは、金色に着色された鳥が、かつての飾り物の代替物となるかのように頭上にいて、かつて「母」が担っていた(彼女の心を開かせる)役割(位置)には「好きな男の子」が着くことになる。彼は、アンモナイトの化石=過去をあんこに手渡す。つまり、あんこの位置の移動(母→幼い子供)はたんなる退行ではなく、祭りの日の祝福(あんこ=お姫様)が反復されるのだが、それが「あんこ−母」の関係によってもたらされるものから、「あんこ−男の子」という関係によってもたらされるものへと発展している、ということになる。
「ちょっといい話」でしかないような話に、鳥という存在が付加されることにょって、非常に複雑な記号とイメージの連鎖と変換といった「運動」が生じていると思った。
●一話でこれから冬休みというところから始まって、四話でもう初夏になっているという時間の展開の速さがすごく贅沢な感じ。この作品は、『サザエさん』や『ちびまる子ちゃん』みたいに延々と続けることも可能なくらいに設定が作り込まれているし、キャラの配置も練られているのに(オリジナル作品だから、それはまったく一から練られたものだろうし)、それを1クール12話で使い切ってしまおうとでもいうような気前の良さがある。時間が止まっているかのような商店街で、あえて時間の流れを強調するように早回しされる時間。いや、人気が出れば当然、二期、三期とか映画版とかがあって、また別の時間が流れるのだろうけど。
●たまこの家が、商店街のメインストリートから、角を曲がって少し外れたところにあるという位置の設定も、けっこう効いているように思った。
●あんこが好きになったメガネの男の子は、どことなく少年時代の多蕗先生に似ている気がした。そういえば、小学生男子が二人、喋りながら手前にフレームインしてくる感じは、『ピングドラム』で宮沢賢治の話をしている二人組の小学生みたいでもある。
●四話、かなりいい感じなのだけど、二話がすばらしすぎたので、それでもやっぱり、もうちょっといけないだろうかという気もしてしまう。