●作品において重要なのものが、感覚可能なものそのものであるより、感覚可能なもの(の相互作用)によって作動する機能の方であるとすれば、機能そのものは感覚も認識もされないままただ機能しているので、それはいわゆる表象ではないし、表象を分析することによっては捉えられないものだということになる。
「考えるな、感じろ(Don't think, feel.)」という言葉において、「考える」とは感覚や表象(図)のことであり(つまり、通常は「感じる」と言われているようなもののことで)、あるいは、表象(図)について表象(図)を使って考えることであり、対して「感じろ」とは、そのような「感覚(表象)」に頼らずに何かを掴めということだろうと思う。というか、感覚に「騙されず」に機能を掴めという意味だと言えるのではないか。感覚の図が問題なのではなく、図を図たらしめている図式化できない図と図の相互作用を掴め、と言うこと。
これは勿論、イメージ(図)の下に目に見えない本質や普遍があるという話とは違う。あるいは、カオス(表象不可能なものとか、物自体)とイメージ(表象とか、現象)といった二元論でもない。感覚(認識)可能なものとしてのイメージと同時に、それとはまったく別のやりかたで働いている(認識できていない)機能が、(下にも上にも横にも)複数重なって働いているというようなことだ。
「考えるな、感じろ」とは認識にかんする言葉ではなく実践にかんする言葉だから、つまり、認識できない(認識とは別系統ではたらいている)機能にも「乗っかる(それを使う)」ことは出来るという意味でもある。それに乗っかるために、様々な力の錯綜としての現実のなかから「何を拾って何を捨てるのか」ということを習得する必要があり、拾ったものたちをどう組み合わせるかを習得する必要がある。その時、何を拾っていて何を捨てているのかを具体的に認識は出来ないが、それを知らないままでも「わたしの身体」はその「やり方」を総体としてまるっと掴むことは出来る、というようなことだろう。
だから、「考えるな、感じろ」という文は「イメージにとらわれずにイメージを掴め」とも言い換えられる。この時の、この文における前者のイメージと後者のイメージとの意味の違いを、外側から付加される説明によってではなく、「イメージにとらわれずにイメージを掴め」という文の「機能」から読み取ることが出来るかどうか、ということが実践的には重要なのだ。
例えばこの時、「イメージにとらわれずにリズムを掴め」と言い直すとなんとなく分かり易くなった気がする。しかしそれでは「リズム」という語の持つ「イメージ」に頼っている(とらわれている)ことになる。あるいは「イメージ/リズム」という意味の差異にとらわれている。だからこの文は既に「考え」に染まっている。説得や説明という場面ではこの方が役立つかもしれないけど(だから分かり易くすることに意味がないとは言わないけど)、実践的には、一見、無意味で理不尽であるかのような「イメージにとらわれずにイメージを掴め」の方が役に立つ。
(リズムは、感じるものであると同時に習得するもの――リズムを感じるためにはリズム感を習得しなければならない――でもあり、一つのイメージであると同時に複数のものの関係−配置であり、しかしそれは全体−配置に従属するものではないし、反復による同一性と可変性との両方にかかわってもいるので、比喩としては非常にいいものだと思う。)
●とはいえ、イメージ(ここでは前者のイメージ)は、抑圧的(固着的)であると同時に触発的(発展的)でもあり得るから、両刃の剣で、イメージがある(イメージである)こと自体が悪いということではない。「リズム」という「イメージ」を使うな、と言っているのではない。イコノクラスムは必要ない。
抽象的であるということは、イメージと機能との関係、あるいはイメージの機能のあり様の問題で、具象的(感覚的)なイメージを使用しているかどうかの問題ではないということになる。例えば神話的な抽象性というものがあり、神話においては、具体的で感覚的な身近な要素が用いられ、それらの関係づけや様々な変換によってある抽象的な機能が表現される。ここで個々の具体的なイメージは、偶発的で代替可能なものに過ぎないと言えるのと同時に、その神話を語る者たちの固有性を生々しく示してもいるという点では重要でもある。だからここで、「イメージを丁寧に味わいつつも、イメージにとらわれずに、イメージを掴め」と付け加え、言い直す必要があるかもしれない。
●例えば、人間の心はそれぞれ独立した多数のモジュールの競合によって出来ており、そのうち意識化されるものはごく一部でしかないというようなことは認知科学ではたぶん常識と言えるようなことなのだと思う。我々の行動や感情は、多数の別々のモジュールのその都度での協調やコンクリフトの結果として生じるもので、意識はそれらを上位から制御するものではない(意識は、既に決定した結果を遅れて知らされるだけなのにもかかわらず、まるで自らが決定したかのように勘違いする)。ぼくがここで「機能(あるいは、後者のイメージ)」と書いているのは、このような「その都度での協調やコンクリフト」の内実のようなもののことで、あらかじめきっちりと出来上がっている(あるいは、広く普遍的に見出される)構造とはちょっと違ったニュアンスのものだ。例えば、人の心が多数のモジュールで出来ているという構造はすべての人に当てはまるとしても、その個々のモジュールの働き方や、強弱、関係における重みづけの分布等は、一人一人の人によって、そして、個々の場面によって、それぞれ異なった形になっているだろう。ここで言う機能とは、多数のモジュールの競合がその時にたまたま「そう作動(相互作用)した」ということであり、あるいは、その人においては「しばしばそう作動する」という「習慣」くらい感じのもので、構造のようにしっかりしていないからこそ、メカニズムとして明示的に示すことができない。
●技術の習得、あるいは技術の創出とは、「たまたまそう作動した」から「しばしばそう作動する」が生まれる過程の問題であるといえる。そして、(非イメージ的な)機能というのはこの中間にあるものだとも言える。
イメージの具象性は、おそらくここで重要な要素となる。「たまたまそう作動した」が「しばしばそう作動する」へと展開するのは、その動作主が置かれた環境からのフィードバックの関与が必要であると思われるから。ある行為−習慣の生成−成立には、それを生み、成立させる環境(場面)の関与が不可欠であり、つまりその行為−習慣の反復はその裏に常に、それを生んだ動作主とその環境との関係の記憶を貼りつかせており、行為の度にそのような環境の反復的な(想像的)回帰の気配を匂わせるのだと思うけど、同時に、具体的な環境や場面を超えた汎用性をも持ち、まったく別の場面や別の応用へと発展することも可能である。つまり、行為−習慣はイメージの具象性と非イメージ的な抽象性とを媒介するものである。
(ここで、場面や環境の具体性はイメージ的であっても、環境からのフィードバックという関与そのものは非イメージ的−非明示的に作用する。だからこそ、「考えるな、感じろ」となるしかない。おそらく環境からの関与の非イメージ性を代補する形で、環境や場面そのもののイメージが一種のノスタルジーとして呼び出されるのだと思われる。)
●イメージの質とイメージの機能。イメージは、質を通じて機能(相互作用)するのか、機能(相互作用)することによって質が生じるのか。イメージの質は、見えて(実感して)いても説明できない。イメージの機能は、仮説として提示できても、実感(認識)することは出来ない。
(分析によって事後的に導かれる「機能」は、実感とはほとんど常に食い違う。だから「考えるな、感じろ」はむしろ「感じるな、受け入れろ」と書き換えられるべきかもしれない。少なくとも、「実感とは別のものを受け入れ、それを(それが働くのを)感じろ」ということではあるのではないか。)
●以上のようなことをぼくは、自分の制作についてのこととして書いているのか、それとも人の作品を観る(受け取る)ということについてのこととして書いているのか、自分でよく分かっていない。そもそも、それが別々のことなのかどうかも、よく分かっていない。作品をつくりながら、その作品の進むべき先行きを探っている感じと、人の作品を観て、そこから何を見出すべきなのか探っている感じとは、別のことではないし、分けては考えられない。
●昨日は、東京都現代美術館に行って(今まで見たことがないくらい混んでいた)、そのついでにギャラリーαMに寄ってみたら、トークがあるというので、それを聴いてから帰ってきた。今日書いたのは、昨日、作品を観たり話を聴いたりしながら勝手にぼんやりと考えていたこと。展覧会やトークへの直接的な反応や感想ではないです。