●「現代思想」一月号に載ってる「ポスト複雑系」(郡司ペギオ幸夫)は、ニーチェ特集に載ったテキストの解説のようにも読める。ここではマニュエル・デランダの『強度の科学と潜在性の哲学』という本が参照される。まず双対図式として、可能性(カオス)-必然的帰結(オーダー)という対が挙げられ、可能性が現実化する、必然が脱現実化するという二つの変換(相転移)として時間が考えられる。しかしそのような描像の問題点として、それでは「現在」が不可能となってしまうことが言われる。
《(…)デランダは、可能性-必然性の軸が、現実化・脱現実化という二つの変換によって構成される双対空間であると説き、双対性のモデルとして、方程式をたてること・解くことの双対性を示すガロア理論を取り上げる。デランダは、この双対空間が、数学者によって一般にアジャンクションと呼ばれるもので、自然科学者の方法論とは、たかがアジャンクションを見出すことである、と述べる。双対である以上、両者は一つのものごと(…)の換言可能な異なる描像に過ぎない。つまりシステムを理解するには、本質的には双対の一方のみで十分である。》
《可能性(カオス)と必然的帰結(オーダー)の対を、時間という枠組みで考えることができる(…)。可能性から一つが選択される課程とは、未来だったものを過去とすることだから。ここにデランダは、双対空間最大の問題点を見出す。それは、未来だったものを過去とする変換が現実化という時間なら、現在はどう擁護できるかという問題である。未来と過去の間に位置する現在は、いま・こことして、或る広がりを有しながら唯一性をもつ必然だ。このような現在は、カオスとオーダーの双対空間における相転移点、氷と水の両者の性格を持った相転移点と位置づけられることになる。それは、両者の臨界状態にして、双対くうかんのなかでほぼ不可能な、際どいバランスの上に成り立つものと構想される。》
●引用の前のブロックは、たとえば物理学における時間の可逆性のようなことでもあろう。時間は、方程式を、たてること(未来)から解くこと(過去)への移行(あるいはその逆)でしかなくなってしまう。双対空間(双対図式)における時間が、そのようにして、カオス(可能性)からオーダー(必然性)への相転移(あるいはその逆方向)という形でのみ描かれるとすれば、現在は、相転移点(例えば、水が氷になる瞬間)という点にまで収縮せざるを得なくなる。そしてさらに、水が氷に変化することは根本的な変化とは言えないから、時間による根本変化がそこには書き込めなくなる、つまり決定論的な世界像になる(アジャンクションでしかない、とはおそらくそのような意味だろう)。おそらくこの相転移点が、ニーチェについてのテキストでは不動点としての永遠回帰に対応する。
そこで、《氷と水の両者の性格を持》ち、同時に、水以外のものへの変化の可能性にも開かれた「現在」という広がり(内在平面)を確保するために、《様々な双対空間スペクトラムを横切る、多様性の軸》が必要となる。可能性−必然的帰結の対を司るのが因果律であるとするならば、双対空間そのものの多様性の軸からやってくるものを「準因果作用子」と名付けるとする。可能-必然という双対図式が、昨日の日記で書いた図式A内のB-Cという対に相当し、多様性の軸は、図式Aと図式Dをつなぐ通路に相当するのだと思う。この、多様性の軸(別の双対空間へとつながる軸)によってはじめて、(可能性−必然性という因果律の軸とは異なる)潜在性-現実性という準因果作用子の軸がもたらされる。この二つの軸の作用によって、相転移点はいわば相転移平面(内在平面)となり、「現在」の位置が確保される。
●そしてそのことは、非同期時間をもたらす。あるいは、非同期時間の導入によって、そのような現在がもたられる。そしてこの時、「社会」という問題が浮上する。つまり、ニーチェ的な超人とは孤高の存在ではなく、社会的な存在だということにもなる。
《わたしは、準因果作用子のもっとも強力なモデルは、非同期時間であると考えている。双対空間に因果律を見出すとき、それは一つの時間発展を司る装置となる。最も単純には、或る因果律に従うエージェントだと思えばよい。したがって、その多様性に関する軸――準因果作用子は、様々な時間軸、様々なエージェントということになる。複数のエージェントが、時間を非同期的に進めるとき、各エージェント(各双対空間)に認められる二つの変換は平行関係に置かれず、斜交することになる。つまり或るエージェントにとっての現実化と別のエージェントにおける脱現実化が斜交することになる。それは未来だったものを過去にする時間の進め方(現実化)、過去となったものから未来を見出す予期(脱現実化)の邂逅が、エージェント間のいたるところで実現されながら時間が進む現象となる。》
《ここにあるのは、個の多様性を担保しながら、一個の明確な単位として現前する社会性である。社会を個の統一と理解するとき、社会と個の多様性は共立し得ない。これに対し、現実化と脱現実化の交わりは、社会と個の多様性を矛盾なく共立させる。》
●引用の最後のブロックは、おそらく「群れ」にかんする研究などから得られた知見でもあるのだろう。このロジックの感じは、タルドとかともすごく近い気がする。
●このテキストでは、ポスト複雑系の問題意識は次のようなものとして書かれている。上記のことがらも、このような問題意識から生じている。
力学系――システムの時間発展に関する因果律――を一方で認めながら、同時にそれが、いつなんどき覆されるかもしれないという可能性に開かれている。両者の接合においてのみ、現象は開設される。これを描像Aと呼ぶことにしよう。このとき、最初に想定された力学系は、もはや実在する因果律ではなく、現象を理解するための橋頭堡的装置にすぎない。≫
≪果たして、ジル・ドゥルーズの生命哲学は、描像Aを指し示すものだった。しかし、それは自然科学の文脈で、十分理解されているだろうか。(…)それは予め想定可能な場合の数=可能性ではなく、或る種の無限を内在した潜在性である。したがって生命の時間とは、潜在性−現実性の軸において理解される。しかしこのような言い回しが、可能性の外側に超越者としての無限を想定し、これをもって潜在性と言うだけなら、それは、力学系を指定しつつ、その決定の恣意性に言及する言い回しに過ぎなくなる。決定できない可能性に開かれていることは知っている、といった弁明が免罪符となって、システム論的展開が進められ、結果的に全体という強度は、部分の統合として理解される。それは描像Aとは乖離した描像となる。≫