●「夏の体育館」や「霊のうごめく家」(鶴田法男)をウェブで観られないだろうかと検索したら、「廃校奇譚」、「木霊」、「花子さん」(黒沢清)なども観られた。
http://www.nicovideo.jp/mylist/8250692
「花子さん」はすごく好きな作品なのでたまに観返すことがあるのだけど、ずいぶん久しぶりに観た「廃校綺談」と「木霊」も思っていた以上に面白かった。いやおそらく、前に観た時よりもずっと面白く感じたのだと思う。「廃校綺談」は『復讐』シリーズと『CURE』の年、「木霊」は『蛇の道』と『蜘蛛の瞳』の年につくられているのか…。
例えば「霊のうごめく家」にあるのは、いきなり背筋に冷たいものが触れたような理屈抜きの恐怖であるのと同時に、それが、遠い土地に来ていつまでも学校になじめない少女が超自然的なものに感応するという(『ミツバチのささやき』的な)ちょっといい話に転化されようとする、そのあわいにあるどっちつかずの状態なのだと思う。霊は、受け入れがたい、説明不能な異物であるのだが、少女にはあきらかにそれに対する親しみのような感情が芽生えかけている。霊能者が訪れた時、家の外に逃れた霊と家の中の少女とが道路を挟んで視線のやりとをする(霊にははっきりとした「視線」はないのだが、ここでは視線があるかのように感じられる)場面では、何かしらの感情の交流がこの二人(?)の間に生じているように感じられる。しかし「霊のうごめく家」は短編なので、この交流は発展しないまま作品はふいに途切れる。この切断の効果が、この作品においてすごく大きいように思われた。異物に対して親しみのような通路が開かれかけるのだが、開かれかけたところで作品が中断するので、そこに「物語」によって納得できる着地点はなく、その後に、なんといっていいのか、「後悔」に近いような感情がのこされる。
「廃校綺談」は、この中間状態そのものを主題化したような作品だと思えた。ここでは異物はまさに「友人」としてあらわれ、ある親しみが表現され、感情の交流もなされる。だが同時に、主人公にとって学校は少しのノスタルジーをも感じさせるような空間ではなく、ひたすら荒廃しているようにみえるだけだ。この、学校という空間の荒廃した表現がすごい。授業が行われていても、授業はまったく成立していないように見える。学校が、時間と空間とを規律化する場所だとすれば、ここではそのような時間と空間とのタガは外れてしまっている。タガが外れることで、過去たちがざわめくように噴出している。散らかり、切り離され、崩れ、ただよう、時間と空間は、主人公と友人との交流によって、かろうじてつなぎとめられているようだ。
(もう一人の登場人物、学級委員のような女の子は、「思い出のアルバム」をつくることで、人間にとっては異物であるようなこの時空をなんとか制御しようとしている。)
主人公は、人間にとっては受け入れがたく、あるいは観ることも感じることも出来ないかもしけない領域を、友人化した異物を通して、人間にとって感覚可能な「荒廃」感へと翻訳して受け取っている。「廃校綺談」は翻訳された異物領域という中間地帯をたちあげていると言える。そこで「親しさ(いい話)」は偽の感情かもしれないのだが、それによって主人公はその異物領域に埋没せずに済んでいる。しかし主人公は、その友人をあっさりと裏切り、すると彼はそこでは人間ではいられなくなる。
「木霊」は高橋洋による脚本なので、そのような親しさやいい話によって開かれる「中間領域」は成立しない。人間の感情は事の成り行きに影響を与えることができない。異物がいったん呼び出されてしえば、それを誰も止めることは出来ない。しかしそこでも黒沢清は、運命の進行とは別の広がりをつくろうとしているように見える。例えば冒頭の、両側に個室のあるトイレという空間で、主人公に過剰に、個室に入ったり出たりというアクションをさせることで、時間と空間とを、運命の進行とは別方向へと押し広げようとする。あるいは、実験が行われるホールの脇にある照明器具を設置するような細長いスペースで、縦の構図で大勢の人物たちを複雑に交錯するように動かし、人物をフレームから出たり入ったりさせる長回しによって、運命の進行とは別方向の時空をつくろうとする。このように、方向を失う時間とねじれた空間のひろがりを示すことによって、「廃校綺談」にあったような中間領域が、運命へと一直接に進む時間に内包される。その都度その都度で、別の方向へとひろがってゆくものが含まれる。ここではアクションは主に、時間進行に抗して、空間的な広がりへと滲み出してゆく。でも、それによって運命の(時間の)作動が影響を受けるわけではない。
そしておそらく、運命は時間さえも超えて作動しているのだということが、高橋洋の諸作では表現されている。