●例えば、Aさんが冗談のつもりで発した言葉が、たまたまBさんのトラウマを直撃してしまい、Bさんをひどく怒らせて(あるいは傷つけて)しまうということが起きたとしても、それは特別な出来事ではなく、日常的でありふれているとさえいる。そしてその冗談は、CさんとDさんとを軽く苛立たせ、一方、EさんFさんGさんを大いに楽しませ、Hさんを退屈させたとする。この時、EさんFさんGさんは、Aさん文脈では「こちら側」の人々であり、BさんCさんDさんHさんは「あちら側」の人々であるという構図は適当だと言えるのだろうか。あるいは、一方はA文脈についてのリテラシーを持ち(それを共有するグループのインサイダーであり)、もう一方は(それを共有しない、あるいは共有を拒否する)その外にいる人たち(他者)だと言えるのだろうか。
A、B、C、D、E、F、G、H、それぞれの人はまったく異なる文脈(文脈複合)のうちにあり、Aさんの冗談に対して反応したポイントはそれぞれ別かもしれない。まったく違う部分に対して、怒り、苛立ち、楽しみ、退屈したのかもしれない。だすれば、Aさんにとって、すべての人が、ある文脈に対しては「こちら側」であり、別の文脈に関しては「あちら側」ということになり得るのではないか。
ある冗談に、笑える/笑えないによってインサイダーとアウトサイダーが分別される(笑いが線を引く)という風に考えるのではなく、ある冗談という媒介によって、怒りや苛立ちや笑いが生まれることで、それを通じてA〜G(Hはとりあえず無反応だったので除外するとして)という人々に何かしらの関係が(あるいはその変化)が生じた、ある結びつきが動いた、と考えることの方が面白いように思う。それぞれ個別の関係があり、個別の関係の変化があり、個別の関係の重なり合いがある。境界によるグループ分けではなく、バラバラな個がつくる群れの動きのような関係の変化を考える。一つの冗談がいくつもの異なる関係をつくりだす。その時、冗談の意味は線引きとはまったく異なるものとなる。
それに対して、Bさんが自身の怒りや傷の深さを表現するのことは正当なことだと言える。そしてその表現はAさんに届き、A文脈に少なくない影響を及ぼすかもしれない。あるいは、Aさんはたんなるめぐりあわせの悪さを感じるだけかもしれない(運悪く地雷を踏んでしまった的な)。あるいは何を怒っているのか理解できないかもしれない。逆切れするかもしれない。それはわからない。このようなあつれきは特別な出来事ではなく、とてもありふれたもので、日常的な世界のなかでいくらでも起こっている。勿論、だからといって意味がないということではない。
これはあくまで、文脈(文脈複合)Aと文脈(文脈複合)Bとの間に起こるコンフリクトであって(ここで文脈AとはAさん固有のもので「EさんFさんGさん」の文脈を「代表する」ものということではないことに注意されたい)、だからこそこのコンフリクトによって、文脈A、Bのどちら側にもそれを通じて変化する可能性が生じ(変化の可能性が抗議するBの側にもあることは重要)、その点において対話的な意味が生じる(そしてその影響は文脈C、D、E、F、G、Hまで及ぶかもしれない)。それを「こちら側」と(決して「こちら側」に回収されない)「あちら側(他者)」との対立(ある文脈とその外)という二項的な構図ではとらえるべきでないと思う。そう考えたとたん、問題は硬直化するのではないか(痛みの特権化は、痛みへの配慮から最も遠いのではないか)。
文脈Aと文脈Bが、あらかじめ固定された立場Aと立場Bになってしまい、その両者の論争になったとたんに、可塑性、創造性が失われる。