●言動がちゃんと一致している人が偉い人だと考える必要はないのではないかと思う。例えば、ある人はとてもよいことを考えつき、それを表現できるのだけど、その人の行動はそのすばらしい考えとまったく一致していなかった(それどころかひどく裏切っていた)としても、その「よい考え」を人前で発表さえしていれば、それに共鳴して、それを実行する別の人があらわれ、よい結果をもたらすかもしれない。よいことを「言うこと」と「すること」とはとりあえず別のことと考えてもよいのではないか。「言う」だけで「する」ことができてないじゃないかと人を批判している(あるいは失望している)暇があったら、それを「言える」だけで大したものなのだし、おもしろそうなので、じゃあ、わたしがそれをやってみましょうということでいいんじゃないだろうか。言うは易し行うは難しとか言うけど、ちゃんとしたことを言おうとすれば、言うだけだってそんな簡単ではないのだから、他人に対しても、自分に対しても、そんな「全人格的に矛盾がない」ことを要求する必要はないのではないか。「できないことは言わない」とか「ちゃんと辻褄を合わせなければ」という統合への強い抑圧は結局、いろいろとうまくいくかもしれない可能性を阻害する方向にはたらきがちなのではないか。やれるかどうか分からないけど、とりあえず言えそうなら言ってしまっていいのではないか。
口先だけで実行が伴わないとして軽蔑される人は、実は、言っていることは立派だけどそれが実行できていないのではなく、そもそも、よくよく考えれば言っていることからして浅かったのだ、ということだと思う。
もっと平然と、言うこととやることの分離を生きちゃってもいいのではないか。もっと言えば、「言うこと」と「言うこと」と「言うこと」、「やること」と「やること」と「やること」とが分離していてもいいのではないだろうか。場面Aで言っていることと、場面Bで言っていることが矛盾しているではないかと言われても、場面AとBとでは場面が違うからいいではないかということでいいんじゃないだろうか。そこに矛盾がないこと、ブレがないことが、「よいこと(立派なこと)」だという根拠はどこにあるのだろうか。場面Aにおける発言「A」と、場面Bにおける発言「B」との間に連続性や整合性がないとしたら、その背景としてある根拠(文脈)《A》との根拠(文脈)《B》の間に連続性や整合性がないからで、つまりそれは「わたし」の矛盾ではなく世界の矛盾であって、そこにある世界の隙間を埋めているのが、発言し行為する者としての「わたし(一人のわたし)」という結節点であり媒介なのだ、というくらいでよいのではないだろうか。むしろ、「わたし」という一人の人間が平気で一貫していないことを言う(する)ということを、世界の断絶や隙間が要請しているのだ、というくらいの勢いで。